バラ十字会の歴史
その2 フィロソフィア・ペレンニス ~西洋に秘伝の教えが伝来した
クリスチャン・レビッセ
この連載の〈その1〉で我々はトートがアレキサンドリアの庭園で繁栄していたヘルメス学~魔法、錬金術、占星術~を携えてエジプトから古代ギリシア世界へと旅したのを観察した。この遺産は6世紀にアラビア人達によって独自の所見が加えられて、その価値が更に高められた。しかし今や、ヘルメス・トリスメジストスは、西洋キリスト教世界へと旅し、スペイン、そして後日イタリアがヘルメスの古代の叡知を保護し、開発していった。この秘伝主義の歴史の新たな段階に、我々はクリスチャン・ローゼンクロイツの旅とバラ十字諸宣言書の内容を解釈するための適切な要素を提供しよう。
スペインのイスラム文化
西暦711年にアラビア人達がスペインを侵略した。コルドバはすぐにウマイヤド王子、アブド・アル・ラーマンの権威の下、回教スペインにおける中心地となった。しかしながらスペイン国内に数多く存在していたキリスト教徒とユダヤ教徒達は信仰の自由は保持し続けた。この状況は文化的交換を許したので建設的な影響を及ぼした。スペインは西洋世界中に当時はヨーロッパ文化よりは進歩していたアラブ文化から到来した遺産の全てを行き渡らせることに貢献した。アラビア人達によって保存されていた、ヨーロッパではまだ知られていなかった膨大な量のギリシアの文献が、スペインの学者達によるラテン語訳本によって入手可能にされた。 秘伝の教えもまた、スペインを通して西洋に浸透した。数多くの錬金術・魔術・天文学の文献がトレドで翻訳され、トレドはすぐに「オカルト科学の中心地」の評判を得た。9世紀の初頭、コンポステラで聖ヤコブの遺体が発見され、それは何世紀も後に終結を見ることとなった事件、つまりキリスト教徒のスペイン国土回復運動を刺激した。11世紀から12世紀までには、ヨーロッパ全土からおびただしい数の巡礼者達がこのコンポステラへと集まり、スペインはヨーロッパにおける他のキリスト教国と接触することができた。それはこのようにして、秘伝主義の集成資料を広めるのに貢献したのである。
スペインの錬金術
ロバート・ハリュークス(Robert Halleux) が、「西洋におけるアラブ錬金術の受容」(The Reception of Arab Alchemy in the West) のなかで指摘したように、アラブ錬金術文献の翻訳は西洋の錬金術発展の道を開いたのであった。錬金術は一般に英国国教会大執事、チェスターのロバート (Robert of Chester) がモリエヌス(Morienus)を翻訳した1144年に西洋に登場したと考えられている。この文献の序文は、三人のヘルメスの伝説を回想して述べていた。1140年から1150年の間、別のスペインの作家、ヒューゴ・デ・サンターラ(Hugo de Santalla)は「創造の秘密書」(Secret Book of Creation) をアラビア語からスペイン語に翻訳した。この著作では、バリナス(Balinus) (すなわちティアナのアポロニウス)は彼のヘルメス・トリスメジストスの墓の発見と、その中でエメラルド・タブレットを見つけ出したことについて報告している。トレドではクレモナのジェラルド(Gerard of Cremona, 1114?-1187) がアラビア語を学び、ゲベル(Geber) とラーゼス(Rhases)による膨大な文献を翻訳した。
ピカトリックス(Picatrix)
錬金術の発展と並行して、魔術もまた12世紀に刷新の体験を得た。中世の頃には魔術は異教のなごりと主としてつながっており、他のどんな起源とも直接関係がなかった。その「ウルガタ聖書」(カトリック教会のラテン語の公認聖書)は、セビリアのイシドール(Isidore of Seville,560?-636) の「語源学(Etymologies) 」に含まれていたこの主題に関連した部分に基づいていた。12世紀から、そしてとりわけ13世紀には、アラブとユダヤの文書の紹介によって、基本的文献が西洋に現れた。その後魔術は学問の形を取り、宮廷の王族達に到来したが、これによってキリスト教会からの弾劾を逃れることができた。 スペイン王「博学な」アルフォンソ10世は、ユダヤの魔術的論文、セフェル・ラジエル(Sefer Raziel)を翻訳していたが、1256年には有名なピカトリックス(Picatrix)も翻訳した。このアラブの論文は、マスラマ・アル・マグリティ (Maslama al-Magriti)によるものとされており、1047年から1051年の間にエジプトで書かれた。この文献は後に、アバノのピーター(Peter of Abano)やマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino) やコルネリウス・ハインリッヒ・アグリッパ(Cornelius Heinrich Agrippa)に多大な影響を及ぼすのである。この論文は、植物と鉱物と動物と惑星の間に存在する共鳴を扱っており、魔法的な目的のためにそれらが使用されるべき方法が書かれている。著者はまたその論文の中で、ヘルメス・トリスメジストスによって考案されたと彼が主張する魔法的な像の力について論じていた。ヘルメスは大洪水の時以前にエジプトに存在した理想郷、アドセンティン(Adocentyn) の創設者であったと述べていた。この都市は、ある太陽のカルトを中心にして組織されていて、その神官はヘルメス自身であった。トマソ・カンパネラ (Tommaso Campanella)は後に彼の著書「太陽の都市」(City of the Sun) の中で議論している様々な概念をこの書から引用している。
カバラ
ユダヤ人たちがスペインに存在していたことは、カバラの普及において重要な役割を演じた。しかしながら、この学問は最初は近くの南フランスで12世紀初頭に「セフェル・ハ・バヒル」(光の書)(Book of Light) を中心に発展した。多くのカバラ研究者達がこの地方にいることになったが、その中にナルボンヌ裁判所長官R.アブラハム・ベン・イサーク (R.Abraham ben Isaac,1180年没)や盲人イサーク(Isaac the Blind,1165-1235) のような人々がいた。しばらく後に、カバラはスペインのヘロナ、カスティーリャ、トレドなどで発展した。そこでは、南フランスのカバラの熟慮的な側面は、ギリシア・アラブ伝統から伝承されてきたユダヤ思想によってばかりでなく、プロチノス(Plotinus)の教義によっても富まされた。サラゴサでは、法悦のカバラの偉大な人物、アブラハム・アブラフィア(Abraham Abulafia)がヘブライの文字についての瞑想で、呼吸法を伴った方法を完成させた。そしてすぐ後の13世紀、秘伝主義の世界での注目に値する成功を達成したゾーハル(Zohar) が現れた。1305年にはスペインのバリャドリードでレオンのモーゼ(Moses of Leon) がこの論文の原本を保存していると主張していた。
占星術
12世紀に始まり、アラブ文献のラテン語訳が出現し、ヨーロッパでの占星術の発達の手段になった。しかしながら、占星術は6世紀から西洋にあったのであるが、それまでは比較的未完成な科学だった。アルブマザー(すなわち、ヤファー・イビン・ムハンマド(Ja'far ibn-Muhammad) )が著した「キタバル・ウルフ」(Kitabal-Uluf)の翻訳は、占星術を更に一層、発達へと導いた。三人のヘルメスの伝説を伝え直したこの本は、ペルシアとインドとギリシアの占星術を要約したものである。古代占星術の基礎的文献に接近できたことは、この知識の実質的部分の注目すべき拡張をもたらした。暦、年鑑、予報そして惑星の象徴を使用したイメージの急速な成長は、それを証明している。それにもかかわらず、占星術の重要文献であるトレミーのテトラビブルス(Tetrabiblus of Ptolemy)のラテン語訳本は、14世紀になってやっと現れたのである。
ユダヤ人の追放
13世紀にキリスト教徒がスペインを奪回した後、回教徒によって確立されていた宗教的寛容は放棄された。ユダヤ人達は既に苦難の時代を体験しつつあり、国外追放か死か改宗するかの選択を迫られていた。1391年に大虐殺を避けるために多くの人々がキリスト教の洗礼を受けることを余儀なくされた。ある人々はマラノス(Marannos)のように、表向きにはキリスト教に改宗して、秘密でそれまでの自分の宗教を続けていた。すぐその後の1483年にキリスト教徒達による異教徒の追放がアンダルシアで始まった。次に1492年には、全てのユダヤ人が、国王フェルディナンドと女王イザベラによって追放された。そのうちの何人かはイタリアに定住し、秘伝の叡知を携えていたが、それがその地で再度繁栄した。 このようにして、このスペイン回教徒がもたらした秘密の叡知の遺産は、イタリアにすでに蓄積されていた秘伝の叡知に加えられた。実際、1439年にイスラム教の拡大の驚異を感じていた東洋のキリスト教徒達は西洋のキリスト教の同朋たちになんとか接触しようと試みていたのである。何人かの東方の叡知の研究者達が、新プラトン派哲学者のジェミスタス・プレトー (Gemistus Pletho) のようにフローレンスに行き、再調停会議に出席した。彼らはギリシアの哲学者達の著作をイタリアに持ち込んだ。1453年のトルコによるコンスタンチノープルの奪取は、ビザンチン教会を圧倒してしまったが、その前にこの大異変を防ぐための再調整の試みに取りかかったのは、すでに遅すぎていた。我々はその後に起こったことによって知ることになるように、「化学の結婚」(Chymical Wedding)の作者が1453年を、クリスチャン・ローゼンクロイツがあるビジョンの中で意図されていた結婚の発表を受け取った年にしたのは、偶然ではなかったのであった。
フローレンスのプラトン・アカデミー
1453年のトルコによるコンスタンチノープル征服は、ギリシア文化~特に様々な抜粋のみによって知られていたプラトンの教義~をイタリアに浸透させることになった。フローレンスの統治者、コジモ・ディ・メディチ(Cosimo di Medici)は、この出来事の重要性に気づき、フローレンスにプラトン学派のアカデミーを創設し、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino,1433-1499) にプラトンを翻訳するように要請した。不屈の旅行者であったフィチーノは、西洋で初めて、プラトンだけでなくプロチノス、プロクルス、イアンブリカス、アレオパガスの裁判官ディオニソス等を翻訳した。その後すぐに、ある重要な発展があった。中世にしばしば言及されてきた「ヘルメス錬金術大全」が姿を消してしまい、残存している文献はアスクレピウスのものだけになってしまった。次に1460年にメディチ家に関係していたある修道士が、「ヘルメス錬金術大全」の写本の一つを入手した。コジモはその文献が大変重要なものであると判断し、マルシリオ・フィチーノにプラトンの翻訳を中断して、この新しく手に入った写本の翻訳に取りかかるように依頼した。その後間もなくして、1471年にフィチーノは「ヘルメス錬金術大全」の最初の翻訳本を出版した。この版はたいへん広い読者層に行き渡ったので、16世紀までに六回も再版されたのであった。
フィロソフィア・ペレンニス~永遠の哲学
マルシリオ・フィチーノは「ヘルメス錬金術大全」の原本はエジプト語で書かれていたのであると確信していた。ヘルメス・トリスメジストスはまた、すべての秘められた叡知を創造して伝えた一人のエジプト人聖職者として詳述されていた。フィチーノは1482年に出版された「セオロジア・プラトニカ(プラトン神学)」(Theologia Platonica) の中で、ヘルメスから継承され、ゾロアスター、オルフェウス、アグラオフェーメ(Aglaopheme)、ピタゴラス、プラトン等の哲学者達につながる哲学者の系図を考案した。このような見解は、ある「原初からの伝承」、ある最初の啓示が時代から時代へ、入門者から入門者へと永続されてきたという新たな概念の誕生をもたらした。これは以前に聖オーガスチンが支持していた概念であったが、フィチーノによって新たに復活させられたのであった。それは1540年にアゴスティノ・ステウコ(Agostino Steuco,1496-1549) によってフィロソフィア・ペレンニス(Philosophia Perennis)~永遠の哲学という概念によって型式が整えられた。
アラム人
この概念はフローレンスでは好意的に受け入れられた。それにもかかわらず、驚くべきことに1548年版の「ヘルメス錬金術大全」はトスカナ大公コジモ1世への献呈とされていて、それは「アラム人」カルロス・レンゾーニによって書き込まれたと記されていた。この形容辞を理解するには、ヘルメス・トリスメジストスはノアと同時代人であったと考えられていたことを思い起こさねばならない。大洪水の後、ノアはエトルリア(Etruria) に12の都市を建設し、彼の遺体はローマの近くに埋葬されたと考えられていた。そしてまた、リビアのヘラクレス(Hercules of Libya) がフローレンスの創設者であったとも言われていた。このことからタスカナ言語優越感の考えが起こったのであった~つまり、エトルリア語を通して、アラム人から来たものであると。エジプト人はノアの末裔だと考えられていたので、フローレンスを文明の同じ源泉と関連づけるのに、大した努力は必要とされなかった。それらの考え方はコジモ・ディ・メディチに高く買われ、フローレンスのプラトン・アカデミーでは大変もてはやされていた。
自然の魔法
「ヘルメス錬金術大全」は、エジプト人の秘伝の知識を出現させはしたが、しかしその実行方法についてはどちらかというと不正確であった。「ヘルメス錬金術大全」の第13巻で、ヘルメス・トリスメジストスは息子タットに、感覚を押さえることによって獲得でき、星々の影響の悪い兆候を無効にし、人間の中に神性を生じさせる神秘学的再生の原理について教えた。マルシリオ・フィチーノは聖職者であるだけでなく、医者でもあったので、具体的な事柄の感覚の持ち主であった。フィチーノは新プラトン学派で、これらの理論の適用を探求したが、主としてアルブマザーの『ピカトリックス』と、アラブの魔法を学んだアバノのピーター(Peter of Abano,1250?-?1316)の著作によってであった。フィチーノはそれらの理論とキリスト教の中で述べられていた創造的な〈言葉〉の概念とを結合させ、一つの「自然の魔法(natural magic) 」に到達した。フィチーノの自然の魔法は注目に値する洗練を成し遂げた。彼は「創造」の微妙なエネルギーである「スピリタス・ムンディ(spiritus mundi)」を獲得するために、諸要素、鉱物、植物、のみならず、香水、ワイン、詩そして音楽(オルフェウス賛歌)などの中に刻まれている惑星の特徴等の共鳴を利用した。フィチーノは西洋の秘伝主義の歴史の中で、古代の文献の翻訳者、解説者としての役割だけでなく、大きな影響を与えた「デ・トリプリシ・ヴィータ(De Triplici Vita)」のような著作によっても、顕著な存在である。アントニー・ファイブレ(Antoine Faivre)が言ったように、フィチーノのお蔭で秘伝主義は、「ルネッサンスの思想の一部として欠くことのできないものとなるまでに哲学の中にそれ自体を形成させて行ったのであった。
天使の魔法
フィチーノの最も著名な生徒は、神童、ピコ・デラ・ ミランドラ(Pico della Mirandora, 1463-1494) で、彼はわずか23才で、すでに様々な宗教や哲学、秘伝の科 学について当時知られていたことのすべてを学習していた。フィチーノはカバラに対して軽蔑を示していたが、 ピコ・デラ・ミランドラはこの伝承の中に、彼の師の魔術の型式に加えることができる一つの補足を発見した。 ピコは最高天(火と光の世界)のエネルギーに基づいたカバラ魔法を使うことによって、自然の魔法を適切に強 化できることを発見した。この知識は天使や大天使を、神の言語とされていたヘブライ語の名前で呼び出すもの で、彼にとっては考慮するに足る効力をもっていた。 聖ジェローム(St.Jerome, ウルガタ聖書を完成した)とニコラウス・クザーヌス(Nicholas of Cusa)のイエスの名に関しての、理論を復活させることにより彼は、カバラはキリストの神聖さを証明できるようにしたことを示した。このようにして、ピコは「クリスチャン・カバラ」の基礎を築いた。彼は考え方において普遍的思想家であり、彼はまた、すべての哲学体系が一つに集まることを論証しようとしていた。その理由から、1486年に様々な原典から引用した900の論文を出版した。彼が主張した議論の中には、魔術とカバラはキリスト教を補足し合うものであるとの宣言がある(論文第7)ことだけを示すことにする。ピコは公開の議論でこれらの論文を弁護することを提案したが、想像できるように、人々の反応は激しいものだったため、彼は自身を守るためにイタリアから逃げ出すことを余儀なくされた。にも拘らず1493年6月、ピコは魔術と占星術に極めて関心が高かった法王、アレキサンダー6世によって復職させられた。
ヴォーアーカドゥミア(The Voarchadumia)
この時期に、イタリアは秘伝主義の活発な中心地となった。ベニスはカバラ、占星術、錬金術、そして数字の科学の普及に重要な役割を果たした。13世紀以降、アラブ世界からもたらされた錬金術の集大成は全て翻訳されて、アルバタス・マグヌス(Albertus Magnus) 、トマス・アキナス(Thomas Aquinas)、ロジャー・ベーコン(Roger Bacon) 、ヴィラノバのアーノルド(Arnold of Villanova) 、レイモンド・ルーリー(Raymond Lully) 、ニコラス・フレメル(Nicholas Flamel) 等の著作の開花を導いた。14世紀から15世紀には、キリスト教の寓話を採用した錬金術の復活が伴い、神秘学的含蓄のあるものになり、ある人々は疑問視していた。それは宗教的用語で表現されたプラクティカを含んでいたのだろうか、それとも錬金術的用語で表現された神秘学的経験が述べられていたのだろうか。この傾向は、聖トマス・アキナスの著作と見られている、内的な霊的再生の体験の錬金術的過程を表していた論文、「昇る日の出(The Rising Dawn) 」によって13世紀後半に起こった運動を確証して強めた。1478年にミカエル・ペンセウス(Michael Pantheus)がベニスで錬金術の超越的側面を強調したヴォーアーカドゥミアという題の、長い論文を出版した。伝説ではヴォーアーカドゥミアはベニスの秘密組織であった。いずれにしても、オカルト哲学を研究するために多くの学者達がイタリアに旅した。その中でも、ヨハン・ロイヒリン(Johann Reuchlin,1455-1522) とコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパ(Cornelius Heinrich Agrippa,1486-1536)は二人ともヨーロッパ中に秘伝主義を普及させることに貢献した。
デ・ヴァーボ・ミリフィコ(De Verbo Mirifico)
スペインから追放されて、1492年以後はイタリアに居住していた人々の中には、医者でありカバラ学者のイサーク・アブラバネル(Issaac Abravanel,1437-1508)もいた。彼はカトリックへ改宗していて新プラトン主義に熱中していた。そしてすぐ後に新プラトン主義とカバラを統合した著作、「愛の対話(Dialogues of Love) 」を出版した。このようにして、ピコ・デラ・ミランドラとマルシリオ・フィチーノによって拓かれた分野が拡大されていった。しかし第4番目の人物、ヨハン・ロイヒリンは、3人の先駆者達の偉業を統合したという誉れを獲得した。ロイヒリンはヘブライ語を学ぶために、1482年にローマへと旅立ち、そしてフローレンスへも旅してピコ・デラ・ミランドラと会った。ドイツに帰国した後、彼は熱心にクリスチャン・カバラを広めた。1494年にはピコ・デラ・ミランドラの (イエスコウアー,Ieschouah)という「言葉」についての思索を更に徹底的に研究したデ・ヴァーボ・ミリフィコを出版した。この本の影響は明白であった。なぜならその本はヨーロッパで初めて、カバラにまるごと捧げられたものだったからである。そして1517年に出版されたキリスト教カバラの基本的文献の一つである、デ・アーテ・カバリスティカ(De Arte Cabbalistica)によって完成をみた。ロイヒリンが成し遂げた天使学の重要な発展は、フィチーノの自然の魔法を汚していた鬼神学的な不信感を払拭したのであった。
世界の調和
自然の魔法は、創造における全ての物事の間に存在するオカルト的共鳴を強調した。この概念はベニスのフランシスコ修道会のフランシスコ・ディ・ジョルジオ(Francesco di Giorgio,1450-1540)の努力によって多大な発展がもたらされた。1522年に彼はキリスト教カバラに欠くことのできない文献、デ・ハーモニア・ムンディ(De Harmonia Mundi) を出版した。彼の創造性は、ピタゴラスの数字学的伝統、錬金術、ビトルビウス(Vitruvius,1世期のローマの建築家) の建築学をピコ・デラ・ミランドラのカバラとマルシリオ・フィチーノの新プラトン主義とを結合させた事実から引き出されたものであった。この著作は英国のバラ十字会員達、特にロバート・フラッド(Robert Fludd)と、さらにはレ・フェブレ・デ・ラ・ボデリー(Le Fevre de la Boderie)の翻訳によって、プレイヤード派(La Pleiade)のフランスの著作家達のグループにまで多大な影響を及ぼした。
オカルト哲学
ヨハン・ロイヒリンにとっては天使の魔法は、もっと厳密な性格を帯びていたが、それは根本的には仮説的なものであり続けた。医師としての実地訓練を受けていたコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパこそが、真の実際的な魔法の手引書、デ・オカルタ・フィロソフィア(De Occulta Philosophia)を出版して、魔法をより堅実な領域へともっていった人物である。1510年のこの本の初版は、ピカトリックスとヘルメス錬金術大全とフィチーノの著作に強い影響を受けていた。1533年の第2版では、カバラがより大きい役割を担った。ロイヒリンにとっては魔法は〈聖なるもの〉と結合する方法であったが、アグリッパにとって魔法は人間存在の様々な問題に適用するに際して他の主題にも接していた。従って、彼の魔法~「自然な」、あるいは「天上的な」、あるいは「儀式的な」~からはマルシリオ・フィチーノがそれに与えた霊妙さが失われてしまった。アグリッパは魔法の正方形や惑星の印や、植物、鉱物、数字、天使などがお互いに対応する一覧表を作りあげたときに、天使学と数の科学とアラブ魔法を組み合わせた。アグリッパの本は法王ピウス6世 (Pope Pius VI)によってカトリックの禁書目録に載せられたにも拘らず、今日でさえ否定できないほどの水準の成功を納めた。
ジョルダーノ・ブルーノ
ドミニコ修道会の修道士で偉大な旅人であったジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno,1548?-1600) は、ヨーロッパにおける秘伝主義の拡大発展に最も貢献した人物のうちの一人である。ブルーノはマルシリオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラとアグリッパの著作に強く影響を受け、熱心にヘルメス錬金術大全の読解に励んだ。彼の著書、スパシオ・デラ・ベスティア・トリオンファンテ(勝ち誇った獣の追放, The Expulsion of the Triumphant Beast,1584 )で彼はエジプトのヘルメス主義はキリスト教よりも優れていたと主張した。この本の初めに彼は、人類の総合的な改革の目的のために召集された、神々の会議について述べたが、これはエジプト宗教への回帰をほのめかしていた。この全般的な改革の必要性があるという主題は、とりわけ、トライアノ・ボッカリーニ (Traiano Boccalini,1556-1613) の「パルナッサスからの広告(Advertisements from Parnassus) 」に大きな影響を与えた。この本の中のある章は、後にファーマ・フラテルニタティスへの序文として使用された。 ブルーノはキリスト教カバラ研究者よりもフィチーノに近かったが、ユダヤ人たちは好きではなかったので、その結果としてカバラを受け入れなかった。彼にとってはキリスト教の賢者達の姿は完全に消えてしまっていた。彼はむしろアスクレピウスのエジプト魔法をより好んだ。彼はキリスト教徒はエジプト人から十字の象徴を盗んだのだと主張し、エジプト宗教の回帰を予言した。彼は彼の理論をイギリスやフランスやドイツのルドルフ2世の宮廷などで講義した。ブルーノは多彩な人物であり、膨大な主題にふれた本のシリーズを著した。彼の神学的と科学的概念~例えば、宇宙は無限であるとの考え方はニコラス・クザーヌス (Nicholas of Cusa)から借用した理論であった~は、キリスト教の異端審問所といざこざを起こし、彼はついにはローマで火刑にされてしまった。
錬金術と自然
ヘルメス思想は辛うじてドイツで広まった。とは言え、「ドイツのヘルメス」とあだ名されたルドルフ2世の宮廷にまで浸透し、特に錬金術師、ミカエル・マイアーと天文学者、ヨハネス・ケプラーに影響を与えた。二人とも、ヘルメス錬金術大全を完読していた。ヨーロッパの錬金術は2つの偉大な時代を経た。12世紀はその創世期とも言うべき時代で、次にルネッサンスでは急速に広まっていった。とりわけドイツでは、16世紀に正真正銘の大揺藍期があった。そしてこの後者の時代には、称賛すべき最初の錬金術的辞書とも言うべき、「テアトラム・ケミカム(Theatrum chemicum) 」のような偉大な名文集が現れた。これらはそれまでの発現の徹底的な調査と統合の必要性を特徴づけたものであった。 ここで16世紀に錬金術が新しい特質を加えて富まされていた点を指摘しておくべきである。黄金を作り出すことは、もはや取るに足らないことであった。そのかわりに、錬金術は強い霊的な含蓄を発現させており、ある医学的応用を強調し、統一する科学であると主張されていた。錬金術はまた、「アダムの陥落」のみならず「自然」もまた陥落したと導かれる悲惨な宇宙創造論、そして「創造」の歴史に関して熟考することを探求した。錬金術師はこのようにして人類の医者として人の再生を手助けするし、霊的な状態に再度誕生を与えるだけでなく、錬金術師は「自然」の医者でもあり、その常なる使命は、「自然」を完成させることによって自然を育むことであった。知識、再生、そして「自然」はこの錬金術の中ではお互いに密接に結びつけられている。(ついでながら、「自然, nature 」という言葉はラテン語のnaturaから来たもので、〈生まれる〉という意味のnascorの未来分詞である。)
パラケルスス
テオプラスタス・パラケルスス(Theophrastus Paracelsus,1493-1541) は、この科学の進化において最も顕著な人物であった。彼の業績は、その時代のすべての知識を活用しようとするための、とてつもない努力を意味していた。彼は占星術、錬金術、魔術そして人々に人気のある言い伝えなどを深く掘り下げていった。医者としてパラケルススは当時の医学界で支配的であったガレーヌス (Galenos,古代ギリシアの医学者、解剖学者、哲学者) の思想でその効果がなくなっていたものに異議を唱えた。彼の著書、ボルメン・メディシナエ・パラミルム(Volumen medicinae paramurum) とオプス・パラミルム(Opus paramirum)で新しい医学の基礎を明らかにした。小宇宙としての人の理論は既にエリウゲナ(Erigena) によって一般に知られていたが、彼にとってはもっと正確な意味をもっていた。パラケルススにとって哲学は「不可視の自然」の発見であった。自然は彼にとって欠くことのできない機能をもっていた。なぜなら、神は聖書と自然の両方を通して我々に語られるのだと彼は考えていた。従って「自然の本」を熟考する時には、心が開かれていることが望ましかったのである。パラケルススによると人間の役割とは、「自然をその光の中において」明らかにすることなのである。自然はその未知の中に不完成なままで留まってはいるが、その啓示は、完全性へと導かれるように生まれてきている人間の中に見出だされることになるのである。 〈自然〉の諸法則を理解しようと探求するに当たって錬金術師は、〈創造〉との対話に入るのである。この交換を通じて、自然の中の隠された光が明らかにされて人間性を明らかにするのである。しかし後者の人間性のほうには、準備と再生とがなくてはこの結果に到達することはできない。ローランド・エディゴッファー(Roland Edighoffer) が指摘しているように、パラケルススはこの人間の変容を特別な方法でその著書、リバー・デ・レサレクティネ・エト・コーポラム・グロリフィカショネ (Liber de resurrectine et corporum glorificatione)の中で詳述した。パラケルススは繰り返し、(6ページの中で17回にもわたって)十字とバラの象徴を結合させて、それらを錬金術的変生と再生とに結びつけていた。パラケルススは、こう書いていた。:「真の黄金」とは火によって浄化されたものである・・・。このようにして復活のときには不浄のものは純粋なものから分離され、それは新たな体の中に生まれる。そしてこの新たな体は太陽よりも光り輝かしいので、栄光の体と呼ばれる。」キリストの復活は「我々の姿なのである・・・、我々はキリストの中でキリストによって復活される、バラが同種の種から生まれ変わるようにである。」 パラケルススは注目に値すべき深みに到達した人物であり、我々が彼の思想のある局面を強調したいとすれば、それは、それらはファーマ・フラテルニタティスとコンフェシィオ・フラテルニタティスに特に重要な意味を持っていたからである。
ヘルメスの死
ルネッサンスの人間性の状況への様々な伝承の貢献は、全ての宗教、哲学、伝承の間にお互いへの寛容の思想を生じさせることを助けた。ニコラウス・クザーヌス(Nicholas of Cusa)はそのような考えを1439年のフローレンス会議の時に形成させていた。その後、ピコ・デラ・ミランドラはそれらの異なった伝承を調和させようと試みた。また全人類的哲学「パンソフィア(Pansophia) 」を説いたフランシスコ・パトリージ(Francesco Patrizi) などの他の人々はそれを更に発展させていった。彼はその著書、ノバ・デ・ユニバーシス・フィロソフィア(Nova de Universis Philosophia,1591)の中で向こう見ずにも法王グレゴリー14世(Pope Gregory XIV)に真の宗教の確立のためにキリスト教神学校でヘルメス思想を教えるように請願した。やれやれ、このような前衛的な思い付きは、圧倒的な政治宗教的考え方の人々が、既に宗教的に不寛容な時代を到来させていた時代の流れの前には、ほとんど重きをおかれなかった。16世紀に始まった宗教戦争によって、直ぐにヘルメス思想の飛翔は押えつけられてしまうのであった。 この時代において触れられていなかった別の要素が、「エジプトの遺産」についての疑問を間もなくもたらすことになるのである。1614年にイサーク・カゾホン(Isaac Casaubon)はデ・レブス・サクリス・エト・エクレシアスティシス 全16巻(De rebus sacris et ecclesiasticis XVI) を著し、ヘルメス錬金術大全はエジプト起源のものではなく、ヘルメス・トリスメジストスによって書かれたものでもなく、2世紀頃のキリスト教徒によって書かれたものであると論証した。この暴露はルネッサンスのヘルメス主義の息の根を止めた。とは言え、それはルネッサンス期における秘伝主義の伝統をひどく脆弱にしたにも拘らず、エジプトがその魅力の中心であると考えられていた「オリエントの光」として遠い過去から西洋にやって来た知識の伝達の努力が実際にそこにあったという事実は、いかにしても抹消することはできなかった。それにもかかわらず、西洋秘伝主義~錬金術、占星術、魔術、カバラ、数字の科学、予見など~の知識体系の基礎の成り立ちはこのルネッサンス期にあったのである。このように、驚くべきことにカゾホンの発見は1614年の「バラ十字宣言書」の出版に見られる西洋秘伝主義の再創設、再組織と同時に起こったのであった。クリスチャン・ローゼンクロイツがヘルメス・トリスメジストスに取って代わり、エジプトはもはや舞台から去っていったが、それはまた後に戻ってくるのだが、このことは将来の記事で解ることになる。 この「伝統」の再生は、天に刻まれた「火の三角形」によって予言されていたかのように危機の雰囲気の中で起こった。この神秘的な占星術的な惑星の座相とは何だったのだろうか?我々はこの主題について、このシリーズの次回「三重の火」というタイトルの記事で調べてみよう。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.82)の記事のひとつです。
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