カール・グスタフ・ユング
元型と集合的無意識
ジェイムズ・マックティヤー、F.R.C.
カール・グスタフ・ユング(1875 - 1961)はスイスの有名な精神科医でした。「集合的無意識」と彼が呼んだ下意識精神が、個人の客観的精神や主観的精神と同様に重要であるというのが彼の意見でした。まだほとんど利用されていないヘルメス的伝統が西洋にはあり、神聖で、心の奥底を揺り動かす神秘的象徴を求めるために、西洋人が東洋の伝統の方を向く必要はないと論じました。ヘルメス哲学の背後には、心理学的な意味が存在していると彼は主張しました。 |
カール・グスタフ・ユングは1875年7月25日にスイスの小さな村、ケッセヴィルに生まれました。父は地方牧師のパウル・ユングであり、母はエミーリエ・プライスヴェルク・ユングでした。彼は極めて洗練された大家族に囲まれていて、その中には数人の牧師や一風変わった人々もいました。
ユングが6歳になったときに、ラテン語の学習を彼の父は始めさせました。その後長い間、言語と文学、特に古典文学はユングの興味を引きつけました。現代の西ヨーロッパの言語のほかに、いくつかの古典語を彼は読むことができ、そこにはヒンズーの聖典の原語であるサンスクリットも含まれていました。
ユングは、幾分孤独な若者でした。あまり学校を愛さず、特に競い合うことが出来ませんでした。スイスのバーゼル市の寄宿学校に入り、そこでねたみによる数々の嫌がらせの対象となっていました。彼は病気を口実に用いることを初め、ストレスがたまると気絶する厄介な傾向を発症しました。
彼が最初に選択した職業は考古学でした。続いてバーゼル市の大学で医学を研究しました。著名な神経科医のクラフト・エービングのもとで働いていた際に、彼は職業として精神医学に就(つ)くことにしました。
教授の石
The Professor’s Stone
ユングは内向的な人でしたが、言うべき言葉がなかったのではありません。というのも、他の人に向けた文章の才能のために彼は、精神世界の偉人にまつり上げられてしまう危険性があるからです。けれども、そうする事である点が見落とされてしまいます。ユングはあらゆる点で人間的過ぎる人物でした。「私は、ただの文化的下層労働者だよ。」と彼はかつてつぶやき、ジャガイモを育てることに楽しみを見いだしていました。一部の人は彼を、「当てにならない、堅苦しい老人」と呼びました。彼は自身を「哲学者でもなく、社会学者でもない。私は医者である。私は事実を扱(あつか)っている。」と言っていました。しかし時としてユングは失言しています。彼の著作「記憶、夢、回想」の中のひとつの例がそれを明かしています。名前は知られていませんが、夕食をよく共にした友人の暗い秘密について、彼がうっかりと口を滑らせた時のことです。
大学時代の彼は、とても陽気な「飲んだくれのカール」として、学校の友人と飲み友達に知られていました。彼が“美徳連盟”と呼んでいた学生会組織にはいつでも反抗的でした。ユングはアウトサイダーでいること選択しました。9年間もルーテル派の牧師のひとり息子であるということは、厄介(やっかい)なことに違いありません。特に、自身の最も暗い秘密を、あえて打ち明けない場合はそうでしょう! 歴史の彼方の“霧”から生まれ出て、自身の意識の二項対立の中へと分け入る若い少年には、典型的な宗教はほとんど意味を持ちませんでした。仕事の中に彼は慰めを良く見いだして、こう言っていました。「雪どけ水で自分を洗ったにもかかわらず、ぬかるみの中に自分を投げ込むのだ。」 ユングの父はよく小言を言っていました。「お前はいつでも考えることに飢(う)えている。」
彼が石に夢中になり始めたのは9歳の頃で、古い庭の壁の突き出た石が彼の石となったのでした。何時間も彼はイメージ遊びに没頭しました。「この石のてっぺんに私は座っていて、石は下にある。」しかしその時、石もまた「私」と言い、考えることができました。「私はこの坂のここに横たわっていて、彼は私のてっぺんに座っている。」そして、問いが生じます。「私は石の上に座っている者だろうか、それとも私は、彼がその上に座っている石だろうか。」
10歳の頃に彼は小さな人形を彫(ほ)って、自分にとって2番目の宝となった石を与えたのでした。その石はライン川でひろった横長の黒っぽい石で、長い間ズボンのポケットに入れていたものでした。庭にあった石と2色に塗られたこの小石は、この石の持ち主である人形とともに彼の「大いなる秘密」となり、疑問に満ち満ちた子供時代を通じて、彼の慰めとなりました。しかし疑いなく彼の中にはもうひとつの石があり、それは永久に不滅の石でした。
70歳を少し過ぎた頃に、ユングは思いがけず3番目の石を見つけました。「石への信仰の告白」とユングは自分の塔を呼んでいましたが、この塔とは、自分の手でチューリッヒ湖畔のボーリンゲンに彼が建設した家のことです。年月が経つと彼は、その家が不完全であると感じ始め、部屋と中庭、そして上階も加えようとしました。ボーリンゲンは、自分について最も深い感情を抱く(いだく)場所だとユングは常に述べていました。庭の壁用に間違いなく三角形の隅石をユングは注文していたのですが、その代わりに石切り工はその場所に、かなり大きな、完全に立方体の石を運んできました。怒った石工は、この合わない石を返品しようとしました。しかし、ユングは叫びました。「いや、これが私の石だ。私にはこの石がいる!」
最初はためらいがちでしたが彼は、立方体の2つの面に「共時的な」錬金術の標語を彫(ほ)り、最初の2つの石を永遠のものとしました。そして、立方体の3番目の面には、それ自体が述べる事を聴き取りながら彫りました。終わったと感じたユングは石を納めましたが、しかしその後、彼は彫りたいと思った衝動の背後に何があったのかを思索し始めました。結局のところ、何も見ることの出来ない、まだ彫られていない4番目の面があります。ですから、まだもう一つの石があって、それを記すことが、4番目の面に行われるようになるのではないか、それはあの石として、哲学者が取り戻すことになるかもしれないものではないかと、私たちは考えさせられます。
魂の漁師
The Fisherman of the Psyche
心霊的な諸過程における影との遭遇
「赤の書」(Wehr, 1989)からの図
「水は無意識のための好ましい象徴である。」若い頃からユングは、湖の近くに住まなければならないと感じていました。太陽の光で輝くコンスタンス湖の大きな広がりは、最も幼い頃の記憶を、想像もつかない楽しみで満たしました。一方、森の中で響くラインの滝の控えめな唸りは、危険に満ちた夜の漠然とした恐れで彼を満たしました。
水は母なるもの、つまり〈豊穣の女神〉、〈情念〉、〈黄泉の川の深み〉の古代の象徴です。カール・ユングの中の〈子供〉は本能的に儀式を考案し、それによって水の暗い世界を背後にとどめておく壁が築かれました。その水とは「人が自身の中に消失することのありうる」場所でした。ペルソナ(仮面)と影(人格の主観的部分)の再統合が人間の意識を支え、下意識の陰鬱(いんうつ)な深みの中で安全に「魚釣(つ)りをする」ことを可能にすると、後に彼は述べるようになりました。というのも、この下意識には生き物がすぐにぼんやりと現れるからです。「魚たち、深みに住む、おそらくは無害な住民たち、もし湖にたびたび訪れるのでなければ。」
人魚は三位一体のアニマ(妖術師、処女、霊的母)の一部分でした。これらは皆ひとつになって、ソウルすなわち識別する知識を形成しています。「個人の発達において、もし影との出会いを習作とするならば、アニマとの出会いは傑作である。」アニマすなわち生命の息は曖昧で神秘的なものです。「眠れる美女」のように彼女は、自分の息子でもあり父親でもある魔術師によって見つけ出され、巧(たく)みに復活させられなければなりません。ユングは錬金術的論文「哲学のバラ園」にこの事を反映させて、次のように付け加えています。「生命はソウル、つまり油と水である。」息-ソウルは油と水であるという奇妙な観念は、メルクリウス(Mercurius)の2つの性質から生じています。
ユング自身が自分のアニマを目撃した出来事は、ローマ帝国のラベンナ(Ravenna)の女皇帝ガラ・プラキディア(Galla Placidia)の霊廟での、彼の人生の中でも、とても奇妙な出来事のひとつでした。後に、彼の信奉者の大部分が女性である事にある人が抗議した時、彼は冗談半分に言いました。「だから何なのか。心理学は結局はソウルの科学だ。もし、ソウルが女だとしても、それは私の落ち度ではない!」
アニマが古代人にとって、女神か魔女に思えたとしても、この道徳的葛藤の彼方(かなた)には、秘密の知識、隠された知恵の約束が存在していました。と言うのも、彼女は魔法使いマーリン(Merlin)の背後にある意味への道筋を指し示す光の泉の天使だからです。
ボーリンゲンの魔術師
The Wizard of Bollingen
「悪魔の祖母が母で、父は悪魔だったら、人はどのようにしたら〈主〉の良い子となれるのだろうか?」 ユング教授はしばしば逆説や面白い逸話をさしはさんで、聴衆に遠まわしに説明をしました。
錬金術の格言を彫ったユングの石は、ボーリンゲンの塔の外側にまだ立っていて、世界から追放された後の森の中でのマーリンの人生を静かに表現しています。ユングによれば、マーリンは中世の無意識の試みであり、キリスト教の英雄、救われたパルジファル(Parzival)の闇の兄弟を作り出そうとするものでした。伝説のマーリンは、悪魔と汚れなき処女の間の子で、理解されず解釈もされませんでした。そして今日でもなお救われないままです。「マーリンの秘密は錬金術によって、主にメルクリウスすなわちヘルメス(Hermes)の姿で伝えられてきた。」
元型(archetype)と呼ばれる、内的な可能性の不可知の「存在」の中に自身がいるとユングは常に感じていました。元型とは、精神(psyche)の見えざる秩序であり、経験的イメージないしは象徴を変化させる際に、精神の意識ある部分がまとう“衣”であり、そのような象徴は、あたかも自身のうちの〈他者〉に出会っているかのような恐れで私たちを満たします。「〈神〉は円であり、その中心はいたるところにあり、その周はどこにも存在しない。」
恐れを認めつつ、ユングは決して悪魔や神に道を譲りませんでした。彼は理解しようとただ待っていました。熱烈で、原始的で、地の底の性質を持つ暗い力を他の人に投射しないということは、しばしば不可能な課題となります。もし私たちが恐れに直面し、自身の内部を探究するならば、その時、〈古き者〉(Old Man)、〈古代の者〉(Ancient One)の本能的で、長く忘れられた知恵が語り出し、個人的なジレンマを受け入れる手助けをしてくれるでしょう。その〈古き者〉は「ファウスト」の中の「カビロス」(Cabiros)、すなわち美しき水の子供として、あるいはカビリ(Cabiri)、すなわち「背(たけ)の低き、力強き」「原初の人々」として現れます。
「彼の賢明さ、知恵、洞察力だけでなく」とユングは言います。「〈古き者〉はその道徳的性質のゆえにも注目すべきである。」内的な道に沿ってはいるものの、離れて立っている彼は、〈子供〉ないし〈古代の者〉を最も良く理解することができます。
ユングは一度も自身を神秘家であると思ったことはなく、ただの実験心理学者、独自の見解を持った直観的な思想家と考えていました。彼は常に一匹狼であり、彼の時代の大勢の意見からは離れていました。彼はこのような皮肉を言っています。「世界で最も知的な人を百人選んで一緒にしたら、彼らは暴徒になる。一万人を一緒にしたら、ワニのような集合的知性が出来上がるだろう。」
カール・グスタフ・ユングの辛辣(しんらつ)な、ウィットに富んだユーモアは、他のアウトサイダーの心と魂の琴線に触れるでしょう。そして、次の彼の言葉に同意することでしょう。「自分自身の性質に従って人は生きるべきである。人は自己認識に重点を置くべきであり、そして、自身についての真実に従って生きるべきである。菜食主義のトラがいたらあなたは何と言うだろうか?」
ウサギに出会った学生についての古い素敵な話をユングはかつて語ったことがあります。「昔は〈神〉の顔を見た人々がいた。なぜ、もはや見ないのか。」ウサギは答えました。「今では誰も、そんなに低く身をかがめることができないから。」ユングは心得ていて、こう結論を出しています。「小川で水を飲むために、人は少し身を低くかがめなければならない。」
つまり、自身の客観的意識と主観的意識が、下意識精神よりも上位にあるとした時には、私たちは霊感の源泉から自身を切り離してしまっているのです。向きを変えてしまっているのであり、内なる〈創造主〉の顔はもはや見られないのです。
第一次世界大戦は、ユングにとって、自省の苦痛に満ちた時期でした。けれどもこの時期は、世界にこれまで存在した最も興味深い人格の理論の始まりでもありました。大戦後彼は、幅広く旅行をし、たとえば、アフリカ、アメリカ、インドの様々な種族の人々を訪ねました。彼は1946年に職を辞し、1955年に妻が亡くなった後は、大衆の注目を避けるようになりました。そして1961年6月6日、チューリッヒ市で逝去しました。
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