バラ十字会の歴史
その9 『哲学者たちとバラ十字』第一部(前半)
クリスチャン・レビッセ
「白い山の戦い」(1620)が発端となって三十戦争が勃発し、ドイツにおけるバラ十字運動の開花に終止符が打たれた。しかしながらバラ十字会の著作物はすでにヨーロッパ中に行き渡っていて、数多くの哲学者たちがそれらのメッセージに気づいていた。その中でもルネ・デカルトは最もたびたび言及されていた人物であった。秘伝主義の歴史家たちの多くが、デカルトを全く完全な意味においてバラ十字会員であるとしようとしていた。この状況に最も責任があった人物の一人は、アヴランシュ(仏北西部)の司祭であったピエール・ダニエル・ユエ(Pierre-Daniel Huet,1630-1721)であった。1692年にG・ド・ラ(G. de l’A)のペンネームでNouveaux Mémoires pour servir à l’histoire du Cartésianisme(デカルト哲学史に役立つ新回想録)を出版した。これはデカルトに関する暴露を主張していた諷刺本であった。ここでは我々は、デカルトがバラ十字思想をフランスに持ち込んだのであり、バラ十字会の視察官の一人であったと知らされるのである。ユエはまた、この哲学者は500年間生きることを保証されていたため、1650年に没したのではないのであり、むしろバラ十字会を指導するために自分をラップランド人たちの中に隠遁させたのだと主張した。全くありそうもないことが書かれたこの本は、デカルトに関するバラ十字伝説のあるものを生じさせた。もっと近年になって、シャルル・アダム(Charles Adam)もまた『デカルト全集』の中で、哲学者デカルトはバラ十字会員であったと主張した。
ルネ・デカルト
三十戦争直前の時期に、ルネ・デカルト(René Descartes,1596-1650)はバラ十字会に関心を抱いていた。デカルトは1617年に軍隊に入隊し、その職業によってオランダとドイツに赴いた。デカルトはこの旅の間に、占星術や錬金術、カバラに興味を抱いた優れた数学者ヨハン・ファウルハーバー(Johan Faulhaber)と出会った。彼は1615年にバラ十字会員に捧げた本の最初のもののひとつだった『算数的神秘あるいはカバラと哲学の考察』の題名の本を出版したが、それは新しくて賞賛されるべき高尚なもので、それによると数が合理的に秩序だてて計算されるのであった。それはバラ十字の兄弟たちに誠意を持って謹んで献呈されていた。
ルネ・デカルトはまた、オランダ人医師で哲学者で数学者であったイサク・ベークマン(Isaac Beeckman)とも親交があった。彼が後者に向けて1619年に書いた通信はデカルトが秘伝主義科学にも、とりわけコルネリウス・ハインリヒ・アグリッパとレイモンド・ルーリーに興味を抱いていたことを明らかにしている。おそらくデカルトは、ファウルハーバーとベークマンを通してバラ十字宣言書を知ったのであろう。デカルトの伝記作家アドリアン・バイエ(Adrien Baillet)は、デカルトが『バラ十字の兄弟たち』の名で数年間ドイツに設立されていた賢者たちの友愛組織によって保持されている特別な知識・叡智を褒め称えていたと伝えている。『彼は<真実>を探求する手段について最も関心があった時にそのことについて聞いたので特に感動した。このバラ十字への競いの気持ちが自分の中に感じられた』のだった。彼らによって刺激されてデカルトは自分の探求をはじめることを決意したのであった。
1619年の3月にデカルトはボヘミアへ向けて旅立ち、8月にその地に到着した。それからフランクフルトでスティリアのフェルディナンド王(Ferdinand of Styria)の戴冠式に参列した。ある歴史家たちは、デカルトはその機会に近くのハイデルベルグ城に旅したが、その訪問については彼の著書Traité de l’HommeとExperimentaに触れられており、宮殿の庭園にあるサロモン・ド・コーによる自動人形についての記述が見られるようである。この場所は広く知られていてあらゆる知識人たちが訪れていたので、おそらく我らが哲学者デカルトにとってもそうだったのであろう。さらにフランシス・イェーツ(Frances Yates)が指摘するように、ルネ・デカルトが晩年近くに抱いたハイデルベルグの宮廷への関心は、過去の栄華をデカルトが十分承知していたことに我々を思いおよばさせ、バラ十字思想のメッカのこの宮廷とデカルトとの関係はどのようなものだったのであろうかとの疑問が湧き起こってくる。
三つの夢
この時期ルネ・デカルトは学問に没頭していた。昔からどの学者も誰一人として解くことができていなかった数学的問題三題のうちの二題に解答を見出した。すなわちそれは、立方体を二倍する問題と内角を三等分する問題である。1619年の3月デカルトは友人イサク・ベークマンに、『あらゆるタイプの問題を解くことを可能にする全く新しい科学・・・数学を超えた普遍的方法を確立しようと研究しているのだ』と発表した。彼は精神の歓喜に満ちた高揚を感じ、すばらしい知識の基本を見出したことに完全に満足して幸福であった。デカルトは探求している事柄について11月9日に黙想していた。ウルム市近郊にいたその夜の事、デカルトは人生を混乱させることになった夢を三つ見た。最初の夢は、不思議な大学に向かって激しい風に押し流されて、そこで一人の男からメロンをもらう夢であった。デカルトはそこで目覚めると、この夢は悪霊の仕業だと恐れおののいて一心に祈り始めた。再び寝たところ、たちまち第二、第三の夢を続けて体験した。それらの夢の中で辞書と、叡智と哲学がちりばめられている詩集とが提示された。これを調べて次の言葉を偶然発見した。『私がたどるべき人生の道とは何であろうか?』
これらの三つの夢の解釈は多数のコメントをもたらした。多くの著述家たちが指摘してきているように、デカルトがこれらの三つの夢の中で体験した出来事は、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』の中のある挿話とよく似ていた。ルネ・デカルトは一つの急進的な体験をしていたことに気づいて、すぐさまそれを分析しようとした。彼はこれらの夢をたいへん重要だと判断したので、『Olympica』と題する本の中にひとまとめにして書き残しておいた。デカルトはこの夢の中での体験によって自分が正しい道におり、そして数学は、<創造>の神秘を理解するために必要不可欠の鍵であるとの確信を得た。カール・ユングの同僚マリー=ルイーズ・フォン・フランツ(Marie-Louise von Franz)によれば、デカルトの体験した啓示は、数によって伝達された原型の直観的理解に彼を導いたユングの集合無意識の打開であったと見ることができるのではないかと考えられた。デカルト自身もそれは『私の人生の中での最も重要な事柄』に関したものであり、自分が死に至るまでこの文献を手元に置くと言っていた。四年後の1623年にデカルトはパリ市に戻った。その時に彼の名前はバラ十字と関連付けられるようになったのであった。
パリ市内の貼り紙
同じ年、パリ市内の壁々に『目に見える、そして目に見えない』バラ十字会の存在を知らせる貼り紙が貼り出された。ガブリエル・ノデ(Gabriel Naudé)は著書Instruction à la France sur la Vérité de l’Histore des frères de la Roze-Croix(1623)の中に、以下のように述べられているこの貼り紙の内容を提示した。『目に見える、そして目に見えない形で現在パリ市に逗留している我らバラ十字大学本部の代理人たちは賢者たちの心が振り向く至高の存在の恩寵により、我々が滞在することを選んだすべての国々の言語の話し方で、書物や象徴の助けを借りずに話す方法を教え、死の過ちから我々の同胞たちを救い出すのである。』この貼り紙は直ぐ二枚目が続いており、以下の抜粋のように述べられていた。『・・・しかしこれらの驚くべき知識を理解するに至るために我々は読者に警告するものである。我々は彼の思考を見抜くことができるのであり、単なる好奇心から我々に会おうとするものは決して我々と連絡を取り合うことはできないが、もし我々の友愛組織に名を連ねたいとの熱意ある固い決意にかりたてられているのであれば、我々はそのような人物には我々の約束の真実を発現させる、それによって我々は決して滞在場所を明らかにはしない。と言うのは、読者の決意の意思に結合した単純な思考は我々を知るのに十分であり、彼は我々の前に明らかになるのだからである。』
これらの貼り紙は相当な物議をかもし出した。ガブリエル・ノデは、『もし我々が国中に吹き荒れているこの突風の正確な出所を探求すれば、この友愛組織はドイツから国外へ迅速に広まったとの報告を見出すことになるであろう・・・。』と書いた。すぐさまバラ十字会員たちを攻撃する小雑誌が出回った。この友愛組織は世界中に36人の代理人を送り込んでいて、そのうちの6人がパリ市内にいるのだが、彼らと連絡を取るのは思考による以外の方法では不可能だと主張されていた。彼らは皮肉を込めて『見えざるものたち』と呼ばれていた。ガブリエル・ノデはEffroyables pactations faites entre le diable et les prétendus Invisibles(1623)(悪魔といわゆる『見えざるものたち』との間に交わされた恐るべき盟約)といったような刺激的な題名の著書によって、バラ十字会員たちへの攻撃を増加させた。しかしながら後年になってノデは、著書Apologie pour tous les grands personages qui ont été faussement soupconnés de magie(不当に魔法の疑いをかけられていた偉大な人物たちへの謝罪)が示すように、より友好的な態度へ転じた。
これらの貼り紙の出現がデカルトの帰国と同時に起こったという事実は何人かのパリジャンたちの想像力をかきたてるのに十分であった。首都パリ市内では、ルネ・デカルトはこの友愛組織の一員になったのである-そしてこの不可解な貼り紙は彼の仕業でさえあるのだとささやかれていた。噂の芽を摘み取るために、この哲学者は友人たちを一堂に集め、彼は『見えざるもの』ではないし貼り紙とも何の関わりもないことを示した。彼はドイツで実際にバラ十字会員たちを探したが、バラ十字会員には一人も出会わなかったと述べた。デカルトは真実を語ったのだろうか、それとも自分自身を守ろうとしていたのだろうか?真実がどうだったのであろうと、たとえ彼がバラ十字会員に出会っていたとしても、(これは可能であったと思えるが)当時の状況からして彼は沈黙を守っていたに違いないのである。
実際、この時代のフランスはバラ十字会員たちに対して全く友好的ではなかったのである。この点に関連してフランセス・イェーツは当時国中に蔓延していた「バラ十字の脅威」について話していたのであった。カトリック教会はプロテスタントの陰謀を密かに探り、バラ十字会を邪悪な組織だとみなしていた。貼り紙事件が起こった同じ年、ルネ・デカルトの友人にして哲学者で碩学の大修道院長マラン・メルセンヌ(Marin Mersenne,1588-1648)は、バラ十字思想を猛烈に攻撃していた。彼はQuestiones celeberrimae in genesim...を出版してその中でルネッサンス期のヘルメス哲学とカバラに異議を唱え、それらを表象する様々なものに対しても同様に扱った。メルセンヌは特にイギリスのバラ十字会員ロバート・フラッドに対して欠点を指摘していた。実際、メルセンヌは自分が知らなかったことに対して恐れを感じていたし、彼の秘伝主義への理解には笑えるものがあった。彼は「目に見えざる魔法使いたち」がフランス中にはびこっていて邪悪な教えを広めていると想像していたのであった。
メルセンヌの親しい友人の一人、哲学者で数学者のピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi)もまたロバート・フラッドに敵対した。この同じ時期に、フランソワ・ガラッセ(François Garasse)はLa Doctrine curieuse des beaux esprits de ce temps(1623)を出版し、その中で「バラ十字教派とその秘書官ミヒャエル・マイヤー」を糾弾した。また1625年には、パリ市の神学教授陣はハインリッヒ・クンラスの『永遠の叡智の円形劇場』(Amphitheatrum Sapientiae Aeternae)を公然と非難した。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.97)の記事のひとつです。
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