バラ十字会の歴史
その8 『開花しているバラ』(後半)
クリスチャン・レビッセ
ヨハネス・ケプラー
チュービンゲン大学の卒業生であったヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,1571-1630)は、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエのもとをたびたび訪れていた。1600年から1612年の期間中ケプラーは、ルドルフ2世の『魔術の宮殿』(Magical Court)の一員であり、大天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)の助手も勤めていた。ルネッサンス期の新プラトン主義とピタゴラス主義に強く影響を受けたケプラーは、その著書『宇宙の神秘』(Mysterium cosmographicum,1596)の初版の中で、<世界大霊>の仕組みについて繰り返し述べていた。しかし1606年にこの著作を書き直したとき見解を変え、この概念を<力>(Force)の概念に置き換えた。ケプラーによれば、諸惑星の運動は<世界大霊>によって管理されているのではなく、むしろ<力>によってであった。ヨハネス・ケプラ―は後にロバード・フラッドの『形而上学的歴史・・・』に対抗する著作を出版した。ケプラーはこの著書『世界の調和』(Harmonices Mundi,1619)で、その論旨は数学に基づいており、ロバート・フラッドの著作のヘルメス思想を拠り所にはしていないと言明したのであった。彼はまた、フラッドがヘルメス思想と数学を混同していると非難した。
ロバート・フラッドは直ちにVeritatis proscenium(1621)でこれに反論し、彼の理論はヴェネツイアのフランチェスコ・ジョルジやバラ十字会員たちの理論を踏襲したものであることを明確に主張した。それに対してケプラーはApologia(1621)で反論し、さらにロバート・フラッドは1622年にMonochordum mundi symphoniacumで応酬した。アイザック・ニュートン(Isaac Newton)の著作がケプラーの理論を直ぐ確認していたが、最終的な分析では用語<世界大霊>は、用語<力>にとって替えられているが、この<力>の起源については全くの謎に包まれたままなのである!
フリードリヒ5世
バラ十字運動の展開は、プファルツのフリードリヒ(Frederick of the Palatinate)の出現によって決定的な転機を迎えた。その理由を理解するためには、この時代のボヘミアの状況の要約を述べる必要がある。神聖ローマ帝国領のこの州は、フェルディナント1世(Ferdinand I,1503-1564)の時代にハプスブルグ家の領土となっていた。その息子で王位継承者である皇帝マクシミリアン2世(1527-1576)はカトリック教徒であったが、新教徒(プロテスタント)信者には寛容であった。ジョン・ディーからMonas Hieroglyphica(1564)を献じられていたことからもわかるように、この皇帝は秘伝主義にさえも開放的であったようである。マクシミリアン2世の死後、その息子ルドルフ2世が王位を継承した。このハプスブルグ家の支配者は、まさしくカトリック教徒でスペイン王であった甥のフェリペ2世を遠ざけ、その宗教的熱狂に不満を表した。ルドルフ2世は洗練された人物で、科学、芸術、ヘルメス思想に夢中になっていた。ルドルフ2世の宮廷では、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、ミヒャエル・マイヤーらの重要な人物たちが親交を深めていた。この宮廷にはヨーロッパ中からマギたちが訪れ、特にジョルダーノ・ブルーノとジョン・ディーの両者は頻繁に出入りしていた。ファマ・フラテルニタティスは、この君主の治世の間に執筆され、ドイツ国中に写本が出回り広まったのであった。
1621年にルドルフ2世が没すると、無能な弟マチアス(Matthias)が王位を継承した。このときルドルフ王の『魔法の宮廷』は四散し、宮廷に出入りしていた学者たちは、ルドルフ王と趣味と同じくする新教徒の諸公たちのもとへとそれぞれ庇護を求めて離散した。その中のある一団は、イギリス国王の義理の息子で選帝侯フリードリヒ5世のハイデルベルグの宮廷に腰を落ち着け、別の一人はフリードリヒの顧問官アンハルトのクリスチャン候(Christian of Anhalt)の宮廷に加わった。アンハルト候の御殿医はパラケルススの優秀な弟子の一人、オズワルド・クロル(Oswald Croll)であった。最終的にミヒャエル・マイヤーやその他数人は、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツ公の宮廷へ行った。おそらく後者はバラ十字運動の推進のために重要な役割をはたしたものと考えられる。実際、最初の二つのバラ十字宣言書を出版したウィルヘルム・ウェツゼルは、まず、ヘッセン=カッセル方伯の許可を受けなければ何一つとして印刷することができなかったのであった。先皇帝の寛容さを新しい君主が持ち合わせていなかったため、皇帝マチアスの治世では、カトリック教徒と新教徒の争いに再び火がついた。この時期にファマ・フラテルニタティスが出版され(1614)、それから第二の宣言書コンフェシオ・フラテルニタティスが執筆され出版された。第二の宣言書には、迫り来る大変動を予感した悲観主義がみられる。
プラハ窓外放てき事件
マチアス皇帝は、帝国の重要な地位から新教徒を徐々に退けていった。そして1618年にはプラハ市のプロテスタント教会の一つを閉鎖した。この出来事が火薬樽に火をつけることとなった。プラハ市民たちは宗教の自由を求めて反旗を翻し、5月23日には新教徒たちが三人の皇帝の代表者たちを窓の外に放り出した。一般に「プラハ窓外放てき事件」と呼ばれるこの事件は30年戦争(1618-1648)の発端となり、争いによりこの帝国はみるみるうちに荒廃していった。その翌年の1619年3月のマチアス皇帝の死は、ますます状況を悪化させるばかりであった。すでに1617年にボヘミア王を宣言していたマチアス皇帝の甥、スティーリア(Styria)のフェルディナントが皇帝の座についた。イエズス会の司祭たちから教育を受けたフェルディナントは新教徒の信仰を廃止する諸手段を講じて、ルドルフ2世がみせた宗教的寛容を終わりにした。
ボヘミアの国民は皇帝フェルディナントの権威に服従することを拒否し、むしろ新教徒連合の支配者であるフリードリヒ5世を彼の代わりにすることを選んだ。フリードリッヒ5世にはフランスおよびイングランドの新教徒の後ろ盾があった。1610年にヘンリー4世が没すると、ある人々は、フリードリヒこそがまさにカトリック教と新教徒を和解させる人物であると考えた。ある人々はまた、その紋章に描かれているライオンを『セプテントリオのライオンの予言』で予言された繁栄の時代のしるしのライオンであると考えるものもいた。歴史家フランセス・イェーツによると、フリードリヒ5世の宮殿は発生期のバラ十字運動の中心であった。1613年にフリードリヒ5世はイングランドのジェームズ1世の王女エリザベスと結婚した。これはヨーロッパの新教徒連合の結束を確かなものとする重要な出来事であった。この結婚はまず始めにイングランドで祝宴が催され、それからハイデルベルグ城で壮麗な祝典が行われた。これらの祝典がヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』に描かれているいくつかの場面のインスピレーションになっていたであろうことは、かなりあり得ることである。この文化の中心地には、サロモン・ド・コー(Salomonn de Caus)によって設計され、いくつものほら穴状建物や「話す像」や自動人形で美しく飾られた庭園があった。この庭園は世界七不思議の次の不思議であるとされた。
白い山
ボヘミアの王位を受け入れることは、すなわちハプスブルグ家勢力と敵対することになるということをフリードリヒ5世は知っていた。運命に翻弄され、彼には王位を受け入れる以外にすべがなかった。彼は1619年11月にプラハの大聖堂で王位についた。しかしハプスブルグ家が勢力を盛り返し、フリードリヒ5世に容赦なく襲いかかってきたため、なんと彼は「ボヘミア冬王」となってしまった。このとき同盟国だったフランスとイングランドの王たちは、スペインと交戦を恐れて関わり合いを避けた。11月8日、プラハ市の近郊で悲惨な「白い山の戦い」が起こった。アンハルト候に指揮されていたフリードリヒ5世の軍勢は、カトリックの軍勢に大虐殺され、フェルディナントがボヘミア王に復位させられた。フリードリヒとエリザベスはオランダのハーグ市に逃れた。この戦いは数多くの悲惨な出来事に彩られた三十年戦争の先駆けとなった。ピエール・ショニュ(Pierre Chaunu)はこの戦争を『他に類を見ないほどの大災害』であったと述べている。P.モルス(P.Mols)は「人口統計学上、ドイツ史上最大の社会的大変動」と呼んだ。この戦争の結果にはびっくり仰天させられる。プファルツは人口の70%、ヴェルテンベルグは82%、ボヘミアは44%をそれぞれ失った。さらにここに2万以上の難民や亡命者を付け加えねばならない。全体的にみると、中央ヨーロッパは三十年戦争によって人口の60%を失ってしまった。このような状況のもとではバラ十字運動の計画が頓挫してしまったのも全く不思議ではない!
フリードリヒが敗れた後ハプスブルグ家は、フリードリッヒがバラ十字運動と関係していたことを皮肉った版画を出回らせた。カトリック勢力がバラ十字運動に勝利したということは新教徒とヘルメス思想に異端の宣告がなされたトリエント公会議の意向が継続されたのだとみられた。ある版画には、フェルディナント皇帝を象徴する鷹が、フリードリヒを象徴するライオンの横たわる柱の上に留まっている図が見られる。ここには、ファマ・フラテルニタティスの終わりに書かれているバラ十字会員のモットー「おおエホバよ、あなたの翼の下に。」(“Under the shadow of the wings, O Jehovah”)をもじって、「朕の翼のもとにて、ボヘミア王国は繁栄する。」というパロディ文が書かれている。
このようにして、バラ十字会員たちが提示した友愛組織の理想は宗教的不寛容さと衝突し、三十年戦争によって真正のバラ十字会組織の創設が阻まれたのであった。この時代にはバラ十字運動が開花することはなかったが、それにもかかわらず、その理想はヨーロッパ中、とりわけイングランドとフランスに広まった。ルネ・デカルト(René Descartes,1596-1650)がバラ十字思想について調査研究を開始したのはこの 荒廃し混乱した時代においてであった。我々はこの後で直ぐ、彼のフランスへの帰還はパリ市内の壁々に貼り出されてバラ十字会の存在を知らせた謎に満ちた告知文と同時のことであったのを知るのである。そしてイングランドでは、バラ十字運動がフランシス・ベーコン卿によってこれまでにない発展を遂げる事になるのである。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.96)の記事のひとつです。
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