バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その9 『哲学者たちとバラ十字』第二部(後半)

クリスチャン・レビッセ

英国王立学士院(The Royal Society)

 フランシス・ベーコンの没後何年もたたないうちに、諸科学を改革する彼の計画は、英国王立学士院(The Royal Society)に具体的手段を見出した(1660)。1645年には、内戦の真最中に、この学士院の創立をもたらした諸会合が開催されていた。この会合の中心となった参加者の中には、「白い山の戦い」の大惨事から逃げたプファルツからの避難民たちが多く含まれていた。その中には、テオドール・ハーク(Theodore Haak)や、プファルツ選帝公付き牧師であったジョン・ウィルキンズ博士(Dr. John Wilkins)などがいた。ウィルキンズはバラ十字宣言書(manifestos)に述べられている概念を熟知していた。ウィルキンズは、ロバート・フラッドとジョン・ディーの著作に影響を受けて書いた本『数学的魔術』(Mathematical Magick, 1648)の中に、ファーマ・フラテルニタティスとコンフェシオ・フラテルニタティスを引用していた。このようなことから、この同じグループのメンバーであったロバート・ボイル(Robert Boyle)が、これらの会合について議論した書簡の中で、バラ十字会員たちを言い表すのに当時よく使われていた『見えざる大学』(Invisible College)という表現を使っていたことは、全く驚くにはあたらない。また、英国王立学士院の創設メンバーで錬金術の熱心な愛好家であったロバート・モーレイ(Robert Moray)が、トマス・ヴァーン(Thomas Vaghan, 1622-1666)の後援者であったことは、興味深い。ヴァーンはユージェニウス・フィラレテス(Eugenius Philalethes)のペンネームで、1652年に『〈声明〉と〈信条告白〉』(The Fama and Confessio)という題名でファーマとコンフェシオの英訳を出版した。

 これらの思索家たちは、それまでの彼等の先輩たちからの哲学的そして宗教的遺産に終止符を打つことを望んでいたのであった。1660年にこのグループの諸会合から王立学士院が生まれた。フランセス・A・イェーツが指摘していたように、王立学士院の主たる目的は科学の発展であつたのだが、つまり普遍的改革あるいは博愛と教育を目的としていたのではなかったが、フランシス・ベーコン自身が触発されたバラ十字の理想の一部を採用した。トマス・スプラット(Thomas Sprat)は、その著書『英国王立学士院史』(History of the Royal society, 1667)の中ではこのことを理解していたと思われる。この本の口絵には、イングランド国王チャールズ2世の胸像が、王立学士院初代会長ウィリアム・ブラウンカー(William Brouncker)とフランシス・ベーコンの間に描かれている。哲学者の上にある翼は、バラ十字の語句『エホバよ、あなたの翼の陰の下に』を思い起こさせる。この版画を製作したジョン・エヴェリン(John Evelyn)は、もともとボヘミア出身であった。)

コメニウス(Comenius)

 王立学士院の創設に関わった人々の中には、ボヘミアのバラ十字運動に直接関わっていた著名な人物が数多く含まれていた。中でも最も魅力的な人物の一人に、チェコスロヴァキアの哲学者で教育者で著述家であり、むしろコメニウスとしてよりよく知られていたヤン・アモス・コメンスキー(Jan Amos Komensky, 1592-1670)がいた。コメニウスは21歳の時、生まれ故郷のモラヴィア(Moravia, チェコ東部)を去りハイデルベルク(Heidelberg, ドイツ南西部)へと移り研究を続けた。彼は次にフリードリヒ5世とエリザベス妃の戴冠式に出席した。コメニウスは生涯を通じてこのハイデルベルクの王と王妃を支持し、「白い山の戦い」(1620)の悲劇の後でさえもフリードリヒ5世が再び王座に復活する希望を抱きつづけていた。「白い山」の悲劇の後でコメニウスの家は焼かれて彼は逃げ出さなければならなかった。そしてその後すぐに妻子を失ってしまった。ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエと友人であったコメニウスは、バラ十字宣言書に詳細に述べられていた改革計画に熱心になっていた。彼の著書『世界の迷宮と心の楽園』(”The Labyrinth of the World and the Paradise of the Heart”, 1623)は、チェコスロヴァキアの偉大な古典文学であり、ある人々によると世界的古典文学でもあるが、この作品は彼がバラ十字思想にかけ続けていた希望を思い起こさせている。この本の内容は、一人の理想家が三十年戦争の勃発によって全ての期待を打ち壊されてしまった話である。第12章は「その巡礼者はバラ十字会員の証人となっている」と題されており、コメニウスはこの中で、1621年のフリードリヒ王の治世の終りに続いた大惨事とそして彼の失脚によって、バラ十字運動によって着手された改革計画について隠された表現で述べたのであった。友人アンドレーエの「クリスティアナポリス」やトマゾ・カンパネッラの「太陽の都市」の理想郷とは対照的に、コメニウスは科学や雇用など万事がうまくいかなくて、そこでは人が平安と知識つまり『心の楽園』を見出せる所は全くどこにもない都市を描いたのだが、これも理解できるのである。コメニウスは、全ての剣が鋤に、あらゆる槍が刈り込み鎌に打ち直される時が来ることを夢みはじめたのであった。

汎知主義(The Pansophy)

 この悲惨な時期によって、コメニウスは教育の重要性について深く考えさせられていた。バラ十字宣言書の中に描き出されていた普遍的改革計画の諸アイデアが多分、コメニウスが計画していた大宇宙と小宇宙の関係に基づく汎知(Pansophia)あるいは「普遍的知識」の体系を発生させるのに貢献したところが大きかったといえよう。その当時、コメニウスは彼の主要著書のうちの一冊、『万人に教えられた全ての事柄の普遍的芸術』(Didactica Opera Omnia or the Universal Art of Everything Taught to Everyone, 1627-1632)を書いていた。この文献は哲学的側面と神秘学的側面の部分と、そしてもう一つの教育学的手段とその道具について述べていた部分からなっていた。要するに、コメニウスは教育学を省察することだけに夢中になっていたのではなく、その成果にも関心を持っていたのだった。コメニウスは彼の理論を普遍的歴史の中に含め、そして彼は人間が〈アダムの陥落〉後に失ってしまった純粋さを取り戻すための解決策は教育にあると見ていた。それは人が永遠の生命.にむけて準備できる最良の手段であった。従って彼は全ての人間が、いかなる境遇であろうと、この教育を受けられることを望んだ。この著作の後にヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの『勧告』(Exhortaion)という小論が続き、これはコメニウスによって提案された方法を全ての人々が採用するように奨励していた。

 何年もの放浪生活を余儀なくされた後、コメニウスはハイデルベルグ大学の学友であったサミュエル・ハートリッブ(Samuel Hatlib)から教育的改革と博愛主義団体の組織作りの彼の計画に参加するためにイングランドへ行くようにと誘われた。フランシス・ベーコンに心酔していた二人は、白分たちがベーコンの『ニュー・アトランティス』を建設する任務を帯びているのだと感じていた。コメニウスはイングランドで『光の道』(”The Way of Light”,1641)を書いたが、バラ十字宣言書のテーマがあまりにも明白に表されていたので、ある歴史家たちからは『コメニウスのファーマ』と呼ばれていた。コメニウスは1660年にアムステルダムで出版された版の序文には、英国王立学士院の会員たちは〈イルミナティ〉であるとまで述べていた。

光の大学(The College of Light)

 1645年に開始して、コメニウスは彼の仕事の最高峰ともいえる『人類の諸問題改革についての普遍的協議』(The Universal Consultation on the Reform of Human Affairs)の起草に着手した。この著作の中心的概念となっているのはすなわち、繁栄と平和の時代を築くためには適切な改革が必要であるということで、これはバラ十字宣言書の基本的概念を思い起こさせる。この著作は七部に分けられることになっていたが(そのうちの二部が完成されたのみであった)、この数字の象徴的重要性はこの論文の範囲を超えている。この七つの部それぞれには接頭辞pan(Panegersia, Panaugia, Pansophia, Panpedia, Panglossia, Panorthosia, Pannuthesia)が付けられており、普遍性を強調していた。これらは人類に〈天地創造〉における自身の地位を省察させ、〈普遍的光〉を沈思黙考させ、〈普遍的叡智〉に接するようにさせ、〈普遍的言語〉を採用させ、全ての人々に教育を奨励するなどの独特の科学体系であった。彼はまた、新しい世界の組織として、それぞれの国々が三つの組織~〈光の大学〉と〈聖なる評議会〉と〈国際的平和裁判所〉~に直接指導されることを提案した。これら三つの組織は、何世紀も後に成立した国連やユネスコといった大きな国際的組織団体の原型となったといえる。ヤン・コメニウスはほとんどの仕事をなんとか完成させていたが、その完遂に至る前に没した。

 バラ十字運動はコメニウスを通じて、教育を理解するための新しい方法を確立するのに貢献した。ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)は、コメニウスのことを『教育学におけるガリレオ』と評した。コメニウスに深く敬服していた教育学者ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)は、コメニウスを教育学、心理学、教訓学、そして学校と社会との関係学における先駆者だと考えていた。コメニウスは、その人道主義によって世界的に賞賛され尊敬されている。1956年の12月、ユネスコはコメニウスに公式に敬意を表明した。その時の総会では、コメニウスはユネスコ創設の時にこの組織のきっかけとなるアイデアを提議した先駆的な人物の一人であると紹介された。

啓発(The Enlightenment)

 お気づきのように、バラ十字宣言書には当時の哲学者たちが関わっていくようになり、ヨーロッパ文化の発展に一役買っていたのだった。この時代の後で、秘伝哲学と哲学と科学(学問)は道を分かち、一方では啓発思潮(Enlightenment)が、もう一方では啓蒙運動(Illuminism)が起こった。これらの接点において、後に西洋秘伝哲学派として長らく特徴付けられることになるいくつかの大きな流派が起こってきた。これ以前には秘伝哲学の支持者たちは、真に組織化された社会的運動ではなく緩やかな集まりを形成していたにすぎなかった。しかし今や、バラ十字会やフリーメーソンなどの入門儀式形式の組織が出現し、入門儀式を受けることができる数多くのロッジが組織された。この主題については、次の記事で考察してみよう。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.100)の記事のひとつです。

 

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