バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その11 マグネティズムと古代エジプト神秘学研究(前半)

クリスチャン・レビッセ

 18世紀にヘルメス主義科学は、西洋社会の歴史の重大な転換点となった啓蒙思想運動(Eynlightenment)に直面した。この時代、秘伝主義哲学の支持者たちはエジプトに心を奪われ、新たな科学、マグネティズム(magnetism)に耽溺し始めた。これらの要素がいかに関連し合い、バラ十字運動がなしえた発展にどのように貢献したかを検分することは重要である。

 啓蒙思想という哲学的運動は、人類の発展に絶対的な信頼を置いていたことに特徴づけられる。理性は人間の絶対確実な案内人であって、宗教や伝統習慣によって明らかにされたものは何であれ、すべて疑念をもって見られた。そこにおいて人間が探求している〈光〉は、〈創造主〉に属するものではなく、人間の知性によって人間の内側で輝くものであるとされた。

 啓蒙主義時代の全期間において人々は、世界を新たな視点から観察した。数年のうちに人間の知識はずいぶんと拡張された。電力利用の始まりや、ドニ・パパン(Denis Papin)の発見による蒸気機関の初の実用化の試みなど。ラボアジェ(Antoine Laurent de Lavoisier)の著作は、錬金術の研究者たちと、実験し実証する化学者たちとの間に恒久的な溝を作った。博物学者ビュフォン(Georges Louis Leclerc de Buffon)の著書によって進化論が宣言され、生命現象を科学的に理解することと、宗教によって守られてきた創造説との間に非常に大きな裂け目ができてしまった。

感覚論

 18世紀は科学者たちだけの時代ではなかった。それはまた、哲学者たちの時代でもあった。とはいえ後者は主として学者であったのだが。コンディヤック(Étienne Bonnor de condillac)は、感覚がすべての知識の源であると宣言した。彼によれば、人間が認識を獲得するのは、デカルトが言うような思考によってではなく、知覚したことによってであった。エルヴェシウス(Claude Adrien Helvétius)やドルバック(Paul Henri Diertich d'Holbach)らとともにコンディヤックは感覚論運動を先導した。エルヴェシウスもドルバックも、純粋な唯物論と無神論を支持し、理性の使用に反対し幸福の達成を妨げる宗教が暴政の手先であることを示した。

人間機械論

 この時代に計画されたことは、内なる人間を向上させるのではなく、一人一人に幸福をもたらす進歩発展を目指すものであった。さらにこの時代は、ソウルや内部の人の、まさにその存在にも疑問を投げかけていた。「人間機械論」(L'Homme-machine, 1748)でラ・メトリー(Julien Offray de la Mettrie)は人間を、〈創造主〉の存在を見出す探究を必要としない単なる機械装置に引き下げた。当時の哲学者たちの大部分はこの視点に立った。しかしながらルソー(Jean-Jacques Rousseau)はこの主張には異議を唱えた。エルヴェシウスやヴォルテール、モンテスキューやコンディヤックといった著名人たちと共にルソーは仕事し、ディドロ(Diderot)とダランベール(d'Alembert)による「百科全書」(Encyclopedie, 1751-1772)という啓蒙思想の頂点をなす世紀の功績を成しとげたにもかかわらずである。この百科全書派の合理主義と唯物主義はこの時代の文化に大きな影響を与えた。イエズス会士たちやカトリックのヤンセン派修道士たちは、この百科全書のことを「悪魔の書」と呼んだ。

 このような明確な見解とともにあった18世紀の平均的な人々が、自分たちの中に、より高次の本質やソウルやあることをまだ信じ、仮定的な創造主を信頼していたかどうかと、我々は尋ねてみたくなる。確かに、一般の人々は啓蒙思想の様々な展望についてはほとんど知らなかったが、光明派神秘主義(Illuminism)、別名秘伝主義の擁護者たちはこの疑問で頭がいっぱいだった。マグネティズム(magnetism)と呼ばれる新たな科学の出現は物質研究へと彼らを導き、かくして心霊・精神論者たちと唯物論者たちの間に論争を巻き起こし、両者は激しく対立した。かつてエリュ・コーエン組織(Elus-Cohens)の秘書官であったフルニエ(Abbé Fournié)はすぐに、マグネティズムは、我々が肉体とは別のソウルをそれぞれ持っていることを我々に理解させるために神から送られた賜物であると声明を出した。

マグネティズム

 エリファス・レヴィ(Éliphas Lévi)によれば、18世紀における最も重要な出来事は、「百科全書」でもなく、ヴォルテールやルソーの哲学でもなく、フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer, 1734-1815)による動物磁気の発見であったという。レヴィは次のように述べた。「メスメルはプロメテウスのようである。フランクリンは人類の目を天国からそらそうとしたのに対し、メスメルは天国の火を人類にもたらしたのだ」。この医師は1766年にドイツの南西部の街シュヴァーベンに生まれ、「惑星が人体に与える影響について」と題する医学博士論文を書き、万有引力の原因とそれが健康に与える影響について論じた。メスメルは錬金術師たちの様々な論、パラケルスス(Paracelsus)の仮説と、ロバート・フラッド(Robert fludd)が重要視していた世界大霊(World Soul)や、ファン・ヘルモント(Van Helmont)の医学的磁気学や、ウィリアム・マックスウェル(william Maxwell)の生けるスピリット(vital spirit)の理論などについて再び述べていた。これらの異なる視点と、アイザック・ニュートン(Isaac Newton)によって明確に系統立てて述べられた諸原理と、そしてメスメル自身の沈思黙考を比較対照し、彼は自らが展開し導き出した理論を「動物磁気」(animal magnetism)とした。「万物に存在しそこら中を取り巻いている普遍的流体(universal fluid)の運動に人間の身体は影響を受けやすい性質を持っており、そしてこの流体の目的は、すべての生命機能のバランスをとり続けることにある。」ことをこの用語によって彼は意味した。

 フランツ・アントン・メスメルは、この繊細なエネルギーは病気を治療するために集めることができ、それによって健康に必要な調和を取り戻すことができると主張した。彼はまた、あらゆる種類の病気を治すことができるとも主張した。1772年にメスメルは磁石を使った治療を開始した。彼はその結果、両手を磁化することによって興味深い結果が得られることに気がついた。また、磁化した水を使用しての治療も行ったが、それについては有名な「磁化桶」を主に使用して患者の治療を行った。この桶は差し渡し1.8メートルほどあり、ガラスの破片と砕いた硫黄片と、細かい鉄くずが中に入っていた。桶は水で満たされ、いくつもの鉄の棒が刺してあり、患者はその鉄の棒の先端が身体に接するようにして治療を受けたのであった。

調和協会

 メスメルはすぐにいかさまの疑いを持たれ、魔術ではないかとさえ言われた。しかしながらメスメルはその生涯を通じて堅固な態度を崩さず、マグネティズムは超自然現象などではなく、物理現象の一つであることを説明し続けることをやめなかった。批判の嵐に疲弊したメスメルはウィーン市を去り、ミュンヘン市に居を移し、その後パリ市に落ち着いた。パリ市在住中に「動物磁気発見のいきさつ」(Dissertation on the Discovery of Animal Magnetism, 1779)という薄い本を出版し、自らの理論が正当なものであることを伝えようとし、またその中で普遍的流体は身体の中を循環していることを明らかにした。メスメルは自身の研究論文から数多くを引用して、正統派科学と見なされているむしろ尊大でさえあった関係者たちに自説を証明してみせ、アメリカ、オランダ、ロシア、スペインなど世界中の47の大学の学者に自著を送った。

 この出版により、メスメルはパリの科学アカデミー(Académie des Sciences)と王立医学協会と(Société de Médecine)とパリ大学医学部(Faculté de Paris)との間の絶え間ない口論に巻き込まれてしまった。これがもとでメスメルは、再び別地への出発を余儀なくされた。彼はベルギーの保養地スパー市に居を移した。メスメルの患者たちは磁気治療がもたらす効果に夢中になった。そのうちの二名、リヨン市(仏・中東部)の法律家ニコラ・ベルガス(Nicolas Bergasse)とアルザス地方の銀行家コルンマン(Kornmann)はメスメルを援助し、患者たちに磁気治療を施すことができ、そこで研究もできる施設を創設した。その後メスメルは1783年に「調和協会」を設立し、この時点においてマグネティズムは大きな成功を収めた。ルイ・クロード・ド・サンマルタン(Louis Claude de Saint-Martin)でさえ、当時それに魅了されていた。

 メスメルはマグネティズムがオカルト的な神秘療法とは無関係であるということを示すために最大の努力を払っていたにもかかわらず、驚くべきことに彼は、「調和協会」にフリーメーソンに属する形態を与えた。彼はこの協会を「ロッジ」と呼び、教理を伝えるのに象形文字と象徴を使った。更にその会員たちは協会に入会するときに「受け入れ儀式」を受けており、これは明らかにメーソンの入門儀式と類似している。そして会合は徐々に秘密主義の傾向が強くなっていき、そこで行われたいくつもの儀式は実質的にはメーソンの儀式であった。実際「調和協会」は一種の擬似メーソンであったと言えよう。メスメル自身フリーメーソン会員であったし、「調和協会」のほとんどの会員たちもフリーメーソンであり、そしてその中には数多くのマルチニストが含まれていた。随分前から、メスメルは多くの街々で協会を創設して承認されていた。マルキ・ド・プュイセギュール(Marquis de Puységur)は、ストラスブール市(仏・北西部)に「再団結した同朋たちの調和慈善協会」(Société harmonique de bienfaisance des amis réunis)を設立し、同時にデュートリッヒ博士(Dr. Dutrech)はリヨン市(仏・中東部)に融和協会を創設した。モセ博士(Dr. Mocet)もまた、ボルドー市(仏・南西部)に会を設立した。

エジプト文明が芸術と建築に与えた影響

 18世紀にはキリスト教会が影響力を失い、人々は異なる形式の霊性を、より自由に探究するようになっていき、エジプト文明への数年前から始まっていた興味がこの傾向に加わっていった。この傾向が最初に現れたのは17世紀の芸術分野においてであった。ジャン=バティスト・リュリ(Jean Baptiste Lully)は、サン‐ジェルマン・アン・レー市(仏・パリ市西郊外)でエジプト文明に影響を受けたオペラ「イシス」(1677)を上演した。そしてパリ市ブルゴーニュ劇場では、ジャン=フランソワ・レニャー(Jean-Francois Regnard)作の「エジプトのミイラ」(Les Momies d'Égypte, 1696)が上演され、舞台にはクレオパトラとオシリスが登場した。以前の記事の中で我々は、「セトスの生涯~古代エジプト人の日記から」(1731)と題するテラソン司祭の小説では、大ピラミッド内部での入門儀式とメンフィスの殿堂について述べられていたことに言及した。主人公が受けることになった四大要素~地、水、火、空気~による浄化の試練(第2巻)には、フリーメーソンの儀式が採用されていた。数年後、ラモー(Jean-Philippe Rameau)は、ヴェルサイユ市(仏・パリ市南西)でオシリスが登場するバレエ「結婚の儀、またはエジプトの神」(Les Festes de l'Himen ou les Dieux de l'Égypt, 1749)を上演した。ラモーは後にこの題目を改良してバレエ・オペラ「オシリスの誕生」(La Naissance d'Osiris, 1751)を創作した。

 建築の分野においてもこれに遅れをとることなく、ジャンバッティスタ・ピラネージ(Giambattista Piranesi)が古代エジプト様式に触発された数多くの装飾を提案した。王妃マリー・アントワネットはエジプト様式を高く評価し、様々な装飾品を注文したので、王宮とりわけヴェルサイユやフォンテンブロー(パリ市南南東)、サンクルー(パリ市南郊)の宮殿のスフィンクスなどには古代エジプト様式の影響が見られる。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は、フォン・ゲブラー男爵の歌劇「エジプト王、タモス」(Thamos, King of Egypt)の作曲をし、そこでは「魔笛」(1791)で使われた幾つかの部分を再び使用しており、モーツァルトのフリーメーソン・オペラはエジプト神秘学に影響されていた。ヨハン・ゴットリーブ・ナウマン(Johann Gottlieb Naumann)はエジプトに霊感を受けたオペラ「オシリス」(Osiris, 1781)をドレスデン市(独・東部)で初演した。そして大ピラミッド内のフリーメーソンの象徴の数々に隠された意味を主人公が教授される入門儀式的な小説、エッカルツハウゼン(Karl von Eckhartshausen)の「コスチへの航海」(Le voyage de Kosti, 1795)といった作品が後に続いた。

原初の礼拝

 この時期に一冊の出版物が世に出され、諸宗教の比較研究は重大な局面を迎えることとなった。それはアントワーヌ・ド・ジェブラン(Antoine Court de Gébelin)が著した「現代世界との比較で分析された原初の世界」(Le Monde Primitif analyse et compare avec le mond moderene, 1773-1784)であった。諸言語の起源を研究することによって、独自の手法でこの著者は〈原初からの伝統〉(Primordial Tradition)の調査研究を前進させた。〈失われた言葉〉を探求することは、人間の原初の言語を再発見することであり、それによって原初の人間の純粋さを復活させようとしたのだった。ジェブランは自らの内察により、パリ市は昔のエジプトの聖所であったと信じるようになった。彼によると、パリという名前はバー・イシス、すなわち「イシスの帆船」であるという。ジェブランはノートルダム大聖堂の建っている場所にはかつて女神イシスに奉献された聖堂があったと指摘した。「Le Monde Primitif, 1781」の第8巻には、タロットに捧げられた最初の秘教的研究が含まれていた。タロットはエジプトが起源であると彼は説明し、トート神が作ったものであることを示した。

 1783年に、クール・ド・ジェブランは病に倒れ、フランツ・アントン・メスメルの治療を受けた。彼の回復はかなりの反響を呼んだ。というのは、パリ博物館で開かれたマグネティズムの会合においてこの著者が自分の治癒をマグネティズムによるものとしたからである。(彼は名高い学究的分派「ミューズ九女神 (Neuf-Soeurs) 」のメンバーであった)。7月には、メスメルはマグネティズムについて書かれたフランス国王宛ての書状を出版した。それはすぐにパリ市中に出回り、メスメルを取り巻く論争は大きくなっていき、さらにその次の年にジェブランが病死してしまった。その弟子エッティーラ(Etteilla、本名Jean-Baptiste Alliette, 1738-1791)は、師のタロットとエジプトに関する研究を引継ぎ、神秘主義入門儀式組織「エジプトの完璧な入門者たち」(Parfaits Inities d'Égypte)を作った。

 先の段落では諸宗教の比較研究について案じたが、「原初世界」の著者が逝去した後にある本が極めて重大な影響を与えたことについて述べることにしよう。その本はデュピュイ(Charles-Francois Dupuis)著の「人間のすべての崇拝の起源と普遍的宗教」(L'Origine de Tous les Cultes ou Religion Universelle, 1796)である。神話に関する膨大なこの論文の中ほどにあたる部分は、「諸神秘学派に関する論文」から構成されており、地球上のすべての教義、伝説・伝承、祝祭儀は、天文現象に基づく共通の普遍的宗教が源泉となっていることを論証しようと試みている。著者はフリーメーソン会員であり、エジプト起源の秘儀を研究していた。彼はそれを悪で不完全であり真実に反するとした。というのはデュピュイによれば、「真実は秘儀とは無関係である。それらは誤謬と欺瞞にのみ属する」。キリスト教思想がその諸要素を古代の諸宗教から借用し曲解したことを示すことによって、彼はこの宗教思想をズタズタに引き裂いてしまった。デュピュイの本は合理主義者たちの間で大成功を収め、彼らのバイブルとされた。

カグリオストロ

 ある意味では、エジプト文明とマグネティズムは両方とも、アレッサンドロ・カグリオストロ(Alessandro Cagliostro)によって創設されたエジプト流フリーメーソンによってもたらされた。この人物の出自は謎に満ち満ちている。彼は1766年から1768年の間にマルタ島でバラ十字入門儀式を受けたと思われる。彼は1778年にオランダに、言うなればエジプト式儀式を挙行する最初のロッジを創設した。カグリオストロはヨーロッパ中を遍歴した後、1784年10月にリヨン市に到着する。その年の12月には、組織の母体ロッジの役職「勝利を収めた賢者」(La Sagesse Triomphante)に就任した。フランツ・アントン・メスメル同様に、彼は二つの「隔離所」、すなわち入門儀式の性質の治療所を創設した。その一つはエジプト流フリーメーソンが「道徳的に完璧」になるのを可能にし、もう一つは自分自身が「身体的に完璧」になるのを可能にした。ロベール・アマドゥ(Robert Amadou)によれば、カグリオストロの儀式的実践と個人的実践は、エジプトと関係する歴史的系譜に由来するものではあるが、「コプト・キリスト教に中継されたエジプトのファラオ(王)の系統に結びつけられている」という。ここには神的秘術と宗教的魔術と不滅性の探究が、とりわけエジプトの叡智の実践とその叡智の熱望の要素が見られる。

 実際に行われているものでもそうでないものでも、あらゆる種類の儀式~オカルティズム、マグネティズムやテンプル騎士団、バラ十字思想やマルティニズム~の発展は、フリーメーソン会員たちに自らの起源を問わせることとなった。1784年から1785年、そして1786年から1787年の間にフリーメーソンのフィラレテス(Philalethes)統治体制は、国際的な大集会を開催し、メーソン会員たちが招かれ、〈叡智〉へと信奉者を最もよく導くことができると感じる会についてのそれぞれの意見を述べた。この1785年の5月のこの機会に、カグリオストロは以下のように宣言した。「皆さん、この聖なる思想の象徴的表現をこれ以上探す必要はありません。その象徴はエジプトのマギによって6千年前に創られたのです。ヘルメス・トート神は、二つの言葉を残しました。一つは〈バラ〉です。なぜならこの花は球状の形をしていることから統一の最も完璧な象徴であり、そしてその香りを吸い込むことは、生命の啓示を受けることにつながるからです。この〈バラ〉は〈十字〉の中央に置かれ、その図が表す位置は二つの直角の先端が結び合わされるところであり、その直角をなしている二つの直線は、我々の概念作用を通して永遠へと、高さと幅と深さの感覚において延長されます。さらに言えばこの象徴は、秘伝科学では光と純粋さを象徴する黄金色に輝いています。賢者ヘルメスがこれをバラ十字と呼びました。言い換えれば、〈無限者の天球(the Sphere of the Infinite)〉であります。」カグリオストロの任務は短期間で終わった。ダイヤモンドの首飾り事件の後、彼はイギリスに亡命したが官憲の厳しい追求に遭い、1789年の12月27日に逮捕された。そして異端と魔術を行った罪を宣告され、囚われていたサン・レオ要塞で1795年の8月26日に没した。彼の公での役割は13年間を越えることはなかった。

マグネティズムへの非難

 18世紀の始めにはフランス王宮は社交界での主導権を失ってしまっており、その替わりに芸術家や著作家や哲学者や碩学たちが集うサロンが盛んになっていた。すぐにマグネティズムは強い勢力を持つようになり、その集まりは急速に活動へと発展してゆき、単なる気晴らしであったにせよ、上流階級の高い評価を受けた。しかしながらこの治療方法は紛れもなく、啓蒙思想運動の信奉者たちのドグマとなってしまった〈理性(Reason)〉への挑戦であった。1784年にルイ16世は、ラボアジェ、ベンジャミン・フランクリンほか医学アカデミーのメンバー4名からなる委員会を任命し、事態の調査にあたった。この委員会はマグネティズムの治療効果を認知したのだが、それに反する意見を提出し、マグネティズムは非科学的で迷信に満ちたものであると判断を下した。それは主として人間の想像力の結果であると考えられた。それ以後マグネティズムに反対する時事論文が何倍にも増えた。

磁化催眠

 18世紀の終わりに、メスメリズムは困難に直面した。1785年に、メスメルの主たる共働者で通訳(メスメルはフランス語が堪能ではなかった)のニコラ・ベルガス(Nicolas Bergasse)が調和協会から退会させられた。彼はすぐにルイ・クロード・ド・サンマルタン(Louis Claude de Saint-Martin)やJean-Philippe Dutoit-Membriniといった心霊・精神主義者たちと交流するようになり、マグネティズムを信用しなくなっていった。永遠の放浪者メスメルは、トゥールーズ市にしばらく滞在した後、1786年の3月にサンマルタンと近しい間柄のエリュ・コーエンの一家族が住むブールジュ市(仏・中部)に居を構えた。調和協会は数年後の1789年に解散し、メスメルは1815年に〈永遠の東方〉へと旅立っていった。しかしながら、数年のうちにマグネティズムは秘伝主義へと転向していった。実際、ピュイセギュール侯爵で砲兵隊大佐であったアルマンド・マリー・ジャック・シャストネ(Armand Marie Jacques de Chastenet)は、ある発見によってマグネティズムを新たな方向、磁化催眠(somnambulism)へと導いたのだった。

 手の動きによって数分間磁化された患者は、無意識状態~いわば「磁化睡眠」状態になる。ピュイセギュール侯爵は1784年の4月、メスメルの原理に従って磁化治療をしていた時、ある患者が深い磁化睡眠状態に陥って人格が変わったことを発見した。それは人間の精神では近づくことの困難な領域を見たり聞いたりできる驚異的な感覚の拡張をもたらした。さらにその患者は驚異的な透視能力とともに霊媒能力を得て、不可視のものに関する質問に答えることが出来た。これはマグネティック(magnetic)あるいは人工磁化催眠術の始まりであり、無意識の重要な発見へとつながっていった。

 不可視の科学に傾倒する者やエリュ・コーエンの第一段階にいる者は、必然的にこの実験の誘惑にあう。磁化催眠中の神託が、ほとんどあらゆる場所において記録された。ウィラモス(Jean-Baptiste Willermoz)はこの魅力から逃れることが出来ず、そしておそらく、この施術に関してはエリュ・コーエン組織の堕落に基本的な責任があるだろう。実際、磁化催眠においては不可視のものと通じるのに修行や複雑な儀式は必要とせず、ただ患者を磁化睡眠状態にして質問すればよかった。ああ、この実験が示したことには、物事はそれ程単純ではなく、〈入門者協会〉(Société des initiés, 1785)を創り、この運動の一翼を担っていたウィラモスは1785年4月から1788年10月の間の責任を負わなければならなかった。その後彼は、清浄化する作業なしに異世界のベールを上げようとするのは危険なことであると考えるザルツマン(Rudolphe Salzmann)らのようなマルチニストたちと交際するようになった。

 18世紀においてキリスト教会は先頭に立ってマグネティズムを非難してはいなかった。それよりもフリーメーソンに対して、より断固とした態度をとっていた。なぜなら多くのキリスト教徒たちが秘伝哲学に心酔し、こぞってロッジに入門しようとしたからであった。フリーメーソンは1738年のローマ教皇の大勅書で弾劾され、1751年にはベネディクト15世が大勅書を更新した。しかしこの禁止令も依然として効果はなく、ロッジはフランス国内のほとんどあらゆる場所に広まっていった。フリーメーソンは修道院の中にさえみられた。ベニメール(Benimelli)は2000人近くの聖職者たちが当時ロッジに出入りしていたと見積もっている。この時期、国中のあちこちに約650ものメーソン集会所が設けられた。フランス革命が勃発すると、彼らのほとんどが活動を休止した。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.103)の記事のひとつです。

 

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