バラ十字会の歴史
その11 マグネティズムと古代エジプト神秘学研究(後半)
クリスチャン・レビッセ
チュイルリー宮殿のピラミッド
1789年当時フランスは、王権による旧体制(Ancien Régime)に終止符を打つべく揺れ動いていた。驚くべきことに、それに携わっていた革命家たちがエジプトに無関心ではなかったしるしがある。革命初期の理想である純粋、正義、知恵を、彼らはエジプトに投影したようである。このため、8月10日の殉教者崇敬式典の開催中であった1792年8月26日に、チュイルリー宮の中に巨大なピラミッドが建てられた。そして翌年の8月には旧体制の崩壊を記念して「自然再生の祝典」が開かれた。イシスの像をかたどった「再生の泉(the Fountain of Regeneration)」は自然を象徴するものとして、バスティーユ監獄の瓦礫あとに建てられた。同じ時期、ジャン-バプティスト・ルモイン(Jean-Baptiste Lemoyne)は、作品の構想の全てをエジプトのファラオたちの領土から得た初のオペラ「ネフテ」(Nephté, 女神ネートとプタハ神の名からとられた)を上演した。ピエール・エイドリアン・パリス(Pierre-Adrien Pâris)によるそのオペラの舞台背景には、ピラミッドやエジプトの墳墓や、オシリス神殿へ続いてゆく、スフィンクスの並ぶ小道などが登場した。
ナポレオンとエジプト
それから数年後、エジプトへの情熱はナポレオン統治下において拡大の様相を呈した。これに刺激され、ファラオたちの諸領土から到来したと主張するいくつもの入門儀式形式の組織が創設された。1798年の5月、ナポレオン・ボナパルトは5万4千人の兵士と多数の学者、数学者、天文学者、技術者、素描家や美術家たちを引き連れてエジプトへと船出した。そして1798年7月の始めにアレキサンドリア市に上陸した。数日後、「ピラミッドの戦い」でマムルーク朝を征服した。その翌年、ナポレオンはエジプトを研究するよう命令を出し、その成果は有名な出版物「エジプト誌」(Description de l'Égypte)へと結実し、9巻の論文集と11巻の版画集を含むこの出版事業が、1809年から1829年の間に行われた。この記念碑的大事業により、エジプト文明の壮麗さが西欧諸国に明らかにされ、「エジプトに熱狂する愛好家」が出現することとなった。
「エジプト誌」が世に出される前に、それとは別にその端緒となる一冊の本が出版された。すなわちそれは、現代では「死者の書」(Book of the Dead)と呼ばれているパピルス文書である。この本は、「テーベ市の王家の谷で発見されたパピルスの巻物の写本」(Copie figurée d'un rouleau de papyrus trouvé à Thèbes dans un tombeau des rois...)と題して、カデ(M. Cadet)によって出版された。次の世紀には、近代マグネティズムの推進者であるアンリ・デュルヴィル(Henri Durville)が、自身が創設したエジプト化された運動の組織「Order Eudiaque」の活動において、このパピルス文書を詳細に解説した。ピラミッドの国は芸術家たちに再び霊感を与え、1808年の3月にはナポレオン皇帝が、ジャン・ピエール・オマー(Jean-Pierre Aumer)作、ルドルフ・クロイツァー(Rudolphe Kreutzer)音楽担当のバレエ「アントニーとクレオパトラの愛」(Amours d'Antoine et Cléopatre)の初演を楽しんだ。女神イシスはパリジャンたちを魅了し続け、1809年には、委員会がクール・ド・ジェブラン(Court de Gébelin)によって唱えられたパリ市(Bar Isis)の名称の由来に関する仮説の正当性を調査した。そこには古代にイシス崇拝の教団が存在していたことが思い起こされ、伝説が真実であることに賛成するという結論を委員会は出した。1811年の1月、パリ市のイシス起源説は公認され、しばらくの間エジプトの女神がパリ市の紋章に描かれることとなった。
「エジプト誌」の出版により、ナイル河沿岸の地域の神官が保持していた神秘学派の知識が盛んに考察されるようになった。アレクサンドル・ルノアー(Alexandre Lenoir)は、「真の源泉を復活させたフリーメーソン」(La Franche Maçonnerie rendue à sa véritable origine, 1807)を出版し、その本の中でフリーメーソン団と、未開で原始的であると考えていたエジプトの宗教を結びつけようと試みた。ビスメ(A. P. J. de Visme)は、「エジプトのピラミッドの起源と用途に関する新たな調査」(Nouvelles recherches sur l'origine et la destination des Pyramides d'Égypte, 1812)を出版し、抽象的で超常的な科学の基本原理を明らかにしようと尽力した。それから彼は「セトス」を書き直し、最初の出版以上に大きな成功を収めた。
砂漠の友の会
エジプトがしばしば理想的なものとされることが特徴であったこの好意的な風潮の中、極めて多数のエジプト的入門儀式形式の団体が発生した。その最初であるOrder of Sophisiens(1801)は、その実態が謎のままで、ラゴン(Ragon)によって簡単に言及されているだけである。主として我々の興味を引くのは、「ドゥ・マージュ考古学協会」の創設者で考古学者のアレクサンドル・ドゥ・マージュ(Alexandre Du Mége, 1780-1862)の尽力によってトゥールーズ市で生まれた団体だが、これに関しては後にトゥールーズ市で19世紀末に起こったバラ十字運動について述べる時に考察することにしよう。ドゥ・マージュはフリーメーソン団員で、バラ十字高段位に到達しており、1806年に「砂漠の友の会」を創設した。彼は本部ロッジ「最高ピラミッド (La souveraine Pyramide)」をトゥールーズ市に設立した。この創設者の計画によると、このロッジの建物はピラミッド型であるべきであり、入り口は二頭のスフィンクスに守られているべきである。そして、女神イシスとオシリス神の肖像の前に「創造主と人類と真実」に捧げられた祭壇が設置されていなくてはならず、同様に、建物の壁は古代エジプトの遺跡の壁画から模写された象形文字の数々で飾られていなくてはならなかった。団員たちの衣装はエジプト様式であった。この計画が実施されたのかどうかは知る由もないが、この組織はどうやら束の間の存在であったようである。そしてこの組織はトゥールーズ市から離れて、モントバン市(仏・南部)とオーシュ市(仏・南西部)に“ピラミッド”をもたらした。組織が数年にわたって慎ましく存続することは、全く不可能というわけではなかった。そのしばらく後の1822年、陸軍大佐ルイ・エマニュエル・デュピュイ(Colonel Louis-Emanuel Dupuy)とオート=ガロンヌ県の筆頭文書館員ジャン・レイモンド・カルデス(Jean-Raymond Cardes)という二人のトゥールーズ市民が現れ、ミスライム儀式組織(Misraim rite)の本部創設を通じてこのエジプト風の計画を続行した。
メンフィス儀式組織
1814年頃、イタリアのナポレオン軍の将校マルクおよびミシェル・ベダリデス(Marc and Michel Bedarrides)は、ミスライム(ヘブライ語で「エジプト人たち」の意)儀式をパリ市に持ち帰った。しかし、この組織がその名称以外に式典の中でエジプト文化を参考にすることはほとんどなかった。この儀式組織は、フランス軍内部とイタリアの政府関係者たちの中で生じ、ナポレオンが進軍したイタリア国内で確立した。この期間中、フランスとイギリスはエジプトで交戦していた。フランス帝国軍の中には極めて多数のフリーメーソン団員たちがいたので、彼らは(英国の)アンダーソンによって成文化されたものとは別のフリーメーソン起源を見出したがっていた理由も理解できるのである。彼らがエジプトで発見した驚異の数々は、秘伝主義とエジプト文明が同じ分野で扱われる傾向があった時代に彼らが生きていた程度に、彼らの決断に影響を与えていた。前にも述べたが、エジプトのヘルメス神が「原初からの伝統」の源泉であるとの視点は、ルネッサンスを促進することとなった。
ミスライム儀式組織が現れてから数年後の1838年に、ジャン・エチエンヌ・マルコニス・ド・ネグレ(Jean-Êtienne Marconis de Négre)によってメンフィス儀式組織が設立された。先にできたミスライム儀式組織と違って、ディオドロス・シクルスやテラソン神父によって「セトス」の中に記録されていたようなエジプト神秘学派から得た要素を、この組織は式典に組み込もうと試みた。また、マルコニス・ド・ネグレは疑う余地なく、「イシスとオシリスの神秘、エジプトの入門儀式 (Les Mystéres d'Isis et d'Osiris, Initiation Égyptienne, 1820)」に影響を受けていた。その著者ブーランジェ(T. P. Boulange)は、王立裁判所の法廷弁護士で、パリ大学法学部教授であったが、デュピュイの誤りを糾弾し、エジプト神秘学派の入門儀式の価値を論証した。ブーランジェによるとこの入門儀式は、美徳の実践と高位の知識の学習において新入門者を訓練することを意図している。
ロゼッタストーン
この頃までに、エジプトに関する思索から数え切れないほどの理論が生じた。しかし、エジプト史料の真の内容は全く知られていなかった。考古学、言語学、錬金術、マグネティズムの熱烈な研究者であったアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)の仮説が絶対的権威となっていた(Oedipus Aegyptiacus, 1652)。ところが1822年に、突然状況が変わった。エジプト象形文字と古代エジプト民衆文字とギリシア語の3種類の文字で書かれていたロゼッタストーンのおかげで、ジャン・フランソワ・シャンポリオン(Jean-François Champollion, 1790-1832)は、エジプト象形文字解読の手がかりを発見した。すると直ちにキルヒャーの仮説はすべてが粉塵と化し、真の「エジプト学」が起こった。フランス人たちは、「エジプトの姉」になったと思うほどエジプトを近く感じた。ルーヴル美術館の古代エジプト美術部門は1827年に公開され、シャンポリオンが初代管理責任者を務めた。
マグネティズム協会
この同時期に、メスメルによってもたらされた運動は新たな形へと進化し続けていた。偉大なる磁気治療者でマグネティズムの支援者であったピュイセギュール侯爵(貧しい人や恵まれない人々のために彼の自宅は常に解放されていた)は、様々な治療方法や磁気治療によって得られた数々の成果について論じた数多くの著作を出版した。その弟子ドゥルーズ(Joseph-Pierre Deleuze)は、初のマグネティズム専門誌「Annales du Magnétisme, 1814-1816」の定期刊行に着手し、侯爵が1815年にマグネティズム協会(Societe du Magnétisme)を設立したときには、かなりの物議をかもした。この時期に出てきたその他の流れについては、次の機会に触れることにしよう。
何人かの著述家たちもまた、マグネティズムをエジプト文明と結びつけようとした。磁気治療医師でホメオパシー医であったテステ博士(Dr. Alphonse Teste)もその一人であった。テステ博士はその著書、「動物磁気治療実践の手引き」(Manuel Pratique de magnétisme animal, 1828, 1840)の中で、この治療法がエジプトに起源を持つことについて論じた。また、アルフォンソ・カーニエ(Alphonse Cahagnet)が設立したパリ市マグネティズム・精神主義者協会の公式機関紙「Le Magnétiseur spiritualiste」の中の記事でも同様に、エジプト文明について取りあげていた。マーチン博士(Dr. Martins)は、霊媒の見たエジプト寺院の救護施設について論じたが、そこでは磁化された鎖の周りにベッドが配されていた。
キリスト教会は、マグネティズムに関してはどちらつかずの態度を決め込んだ。最初にマグネティズムを批判したのは1841年であったが、1856年には寛大な方針を採った。というのも実際のところ、キリスト教会はソウルが存在する証拠を示そうとして啓蒙運動の物質主義思想と戦っていたため、マグネティズムをある程度は認めざるを得なかったのである。例えば、アンリ・デラージェ(Henri Delaage)は著書「秘伝主義世界およびマグネティズム流派 (Le Monde occulte on Mysteréres du magnétisme, 1851 and 1856)」の中で、マグネティズムはキリスト教不信心者を信者に変えるための適切な手段であると思うと述べた。この科学について好意的な説教をノートルダム大聖堂で1846年から始めた高名なアンリ・ラコルデール神父(Henri Lacordaire)がこの著書に序文を書いた。デラージェの著書は、以下のアレクサンドル・デュマの声明を際立たせることとなった。「もしもこの世界に、ソウルを可視のものにする科学があるとするならば、それは全く疑う余地なくマグネティズムである。」オノレ・ド・バルザック(Honore de Balzac)自身も、小説「ユルシュール・ミルエ (Ursule Mirouët, 1841)」の中で、ミノレ博士(Dr. Minoret)という一人の医師が、マグネティズム治療の経験を重ねてゆくうちに彼自身の信仰を再発見してゆく様を鮮やかに描き出している。その小説の第6章は、「マグネティズムの要約」と題された。
エッセネ派のイエス
一方このような情況において、キリスト教会の教条主義者たちは、原初キリスト教にみられた真のキリスト教思想の探究者たちを阻止しようとした。シャテル神父(Abbé Chatel, 1795-1837)は、Fabré-Palapratが設立したネオ・テンプラー団と強く結びついていたフランスカトリック教会の後援者であった。ピエール・ルルー(Pierre Leroux)などは、エッセネ派が真のキリスト教であると見ていた。ルルーは著書「人間性について、その本質と未来 (De l'Humanitè, de son Principe et de son Avenir, 1840)」で、イエスは東洋の神秘学派と接触していたエッセネ派であったと述べた。ダニエル・ラメー(Daniel Ramée)も、「イエスの死、その歴史的新事実 (La Mort de Jésus, Reveration historiques d'après le manuscrit d'un Frère de l'ordre sacré des esséniens, contemporain de Jésus , 1863)」でこれに追随した。このようにして、1776年に始まった古代組織黄金バラ十字会(Golden Rosy Cross of the Ancient System)と共にエッセネ派思想は、「原初の伝統」を探究する人々の心をつかみ続けた。これはエジプト神秘学研究と結びつき、世間が熱中していた叡智についての基礎知識が再発見されたのであった。
今回の記事で述べたこの時代は、高位の世界との新たな関係によって特徴づけられると言えるかもしれない。ルネッサンス期に現れた魔術は、新しい実践を経て、今や宗教的な含意を全く持たないものに変容する傾向があった。マグネティズムと共に、超常的な世界の科学を誕生させたいという願望が発生したと述べてもほぼ間違いではない。
バラ十字運動の歴史についての連載の中で、今回のマグネティズムへの寄り道は、一風変わったものに見えるかもしれない。しかしこれは、秘伝的な遺産とその実践が進化発展していった様を我々がよりよく理解するために必要不可欠なものである。実際に、人間がもっと調和して暮らしてゆくために、まだ活用されていない人間の精神や魂の機能を発達させる研究と連携して、マグネティズムの流行から数多くの運動が生じた。1836年には非常に重大な出来事が起こった。ピュイセギュール侯爵にマグネティズムを学んだフランス人シャルル・ポヤン(Charles Poyan)が、メスメルの磁気治療をアメリカに紹介したのである。次回はこのことについてさらに検討してみよう。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.104)の記事のひとつです。
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