バラ十字会の歴史
その18 最終章~国際的協調と現在(中編)
クリスチャン・レビッセ
ポレールス
内部の発展に加えて、アモールク(AMORC:本会の略称)は世界中の他の神秘学の団体の人物たちとの関係を維持し続けていた。1930年9月、H・スペンサー・ルイスは、ポレールスの指導者であったチェーザレ・アッコマーニ(Cesare Accomani)(別名ザム・ブォティバ:Zam Bhotiva)と連絡を取り合うようになった。この奇妙な団体は、「神秘的アジアのバラ十字入門儀式の中枢」から指導を受けていると主張していた。そして、〈バラ〉と〈十字〉の印のもとに到来する“スピリット”を迎える準備をするための「ポーラー・フラタニティ」(polar fraternity)を復興する任務をこの団体は負っていた。ポレールスの人々は、その時は近くまで引き寄せられてきており、“火の杖”が地球上のいくつかの国々に再び一撃を与え、人間の利己主義によってすべてが破壊され、黄金への渇望が再び起こると考えていた。彼らは自分たちの主張を証明するため、ヒマラヤ山脈に位置するバラ十字の秘伝的中枢と自分たちが称するものと直接通信することができるという『アストラル力の託宣』を使った。この技法は1908年に、ローマ市近郊に住んでいた隠者ジュリアン師父から伝えられたとされている。1929年の初めに、この託宣の内容に刺激されたブォティバは、「ポレールス」(The Polaires)と呼ばれる団体を創り、この名は『原初の伝統』の象徴的な中心地である聖なる山に関連すると述べた。最初の集会はパリ市リシュリュー通りの、パリジャン新聞社内で開催された。託宣から受け取った情報はすぐに行き詰まりを迎えた。1932年の3月、モンセギュール(Montségur)で虚しく探索を続けた後、ブォティバは落胆して組織を去った。それからマルティニスト会(マルティネス・ド・パスカリの信奉者の団体)と共同支配会(Synarchic Order)のグランド・マスターであったヴィクトール・ブランシャール(Victor Blanchard, 1884-1955)が彼の後任を務めた。
彼らの目的が本気なものであったかどうかは別にして、ポレールスの人々は非常に重要な役割を果たした。というのも、フランス人オカルティストの大部分、ルネ・ゲノン(René Guénon)、モーリス・マグル(Maurice Magre)、ジャン・シャボゾー(Jean Chaboseau)、フェルナン・ディボワール(Fernand Divoire)、ジャン・マルケス・リヴイエール(Jean Marquès-Rivière)、ウージェーヌ・カンスリエ(Eugène Canseliet)などが頻繁に集会に出席していたからである。さらにこの組織は、一般にFUDOSI(the Federatio Universalis Dirigens Ordines Societatesque Initiationis)という略称で呼ばれる連盟(次項参照)を構成する有力な団体のひとつになっていくのである。
入門儀式方式の団体の国際連盟
第2次世界大戦が起こる数年前から、様々な組織からなる神秘学界は混乱に支配されていた。実際のところ、ヨーロッパとアメリカにおけるかなりの数の活動が、伝統ある入門儀式方式を採用している団体の象徴的記号や名称や式典を盗用したものであった。相当数の人がこのことを憂い、その中でも特にベルギーでエミール・ダンティーヌ(Êmile Dantinne, 1884-1969)により創設されたバラ十字会活動に加わっていた人々はそうであった。ダンティーヌは、1923年にバラ十字大学会(Order of the Rose-Croix Universitaire)を、1927年には神秘ヘルメス・トリスメギストス会(Ordre hérmétiste tétramégiste et mystique)を創設した人物でもある。1918年にジョゼファン・ペラダンが没した後、ダンティーヌはペラダンの弟子として登場してきたが、継承した入門儀式は「サール」(訳注:参入者としてのペラダンのこと)からではなく、『アストラル界の』バラ十字から受け継いでいると主張した。これらの会の哲学や式典や教えは、ルネッサンス期の魔術とよく似ていた。つまり、これらの会は、そのような行為を否定していたペラダンの考えからは逸脱するものであった。
ベルギーのバラ十字会員たちは、マックス・ハインデル(Max Heindel) やルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の信奉者や、神智学協会の会員からの批判にさらされることとなった。これらのバラ十字会員のほとんどは哲学者マルティネス・ド・パスカリの信奉者であり、メンフィス・ミツライム儀礼の団員たちであった。彼らは最初のうちは『ジャン・ブリシャーの至高の聖所』(Sovereign Sanctuary of Jean Bricaud)の指揮下にあったが、1933年の初めには独立して活動するようになった。しかし分離した後は国際的な名声のある組織と連携することを望んでいた。すでにアメリカのバラ十字会員と接触していたフランツ・ウィッテマン(Franz Witteman)の助言に従って、ダンティーヌの親しい同僚であるジャン・マランジャー(Jean Malinger, 1904-1982)は、1933年1月11日にH・スペンサー・ルイス宛に以下のように手紙を書いた。「我々は、貴殿が統領(Imperator:バラ十字会の代表職を示す伝統的呼称)をされ指導されておられる高名なバラ十字会に加盟することができれば、たいへん光栄に思います。……アモールクの活動と協力関係を結べることは、とても幸せなことと存じます……。」この交流こそが、FUDOSIが結成される最初のきっかけとなった。連携の目的は、入門儀式方式の団体で連盟を結成し、当時数多く現れてきていた、神秘学の伝統にそぐわない新興の組織から身を守るためであった。この連盟の存続した期間、すなわち1933年から1951年の間、FUDOSIは次のような、多彩な団体からなる連盟であった。
アモールク(AMORC:本会)、 バラ十字大学会(Rose-Croix Universitaire)、神秘ヘルメス・トリスメギストス会(Ordre hermétiste tétramégiste et mystique)、ポレールス会(Ordre des Polaires)、マルティニスト・シナキーク会(Ordre Martiniste Synarchique)、伝統マルティニスト会(Traditional Martinist Order)、ポーランド・シナーキカル連合(Synarchical Union of Poland)、バラ十字カバラ会(Kabbalistical Order of the Rose-Croix)、世界グノーシス教会(Universal Gnostic Church)、聖堂騎士団研究調査協会(Society of Templar Studies and Researches)、福音十字騎士団(Order of the Militia Crucifera Evangelica)、百合と鷹の会(Order of the Lily and the Eagle)、名もなきサマリア人の会(Order of the Unknown Samaritans)。メーソン系のメンフィス・ミツライム儀礼もまた、一時はこの連盟へ代表が参加していた。
FUDOSIの3人の代表
ベルギーのブリュッセル市に創設された連盟は、3人の統領、H・スペンサー・ルイス、エミール・ダンティーヌ、ヴィクトール・ブランシャール(Victor Blanchard)によって運営されていた。この3名のそれぞれは、バラ十字活動のある側面を代表していた。一人目はアメリカのバラ十字活動(AMORC)であり、二人目はヨーロッパ・バラ十字活動(Rose-Croix Universitaire et Universelle)であり、三人目はオリエントのバラ十字活動(Fratanity of Polaires)である。三人の統領はFUDOSIの中において、それぞれ参入者として名前を持っていた。H・スペンサー・ルイスはサール・アルデン(Sâr Alden)、ダンティーヌはヒエロニムス(Hieronymus)、ブランシャールはサール・イエジール(Sâr Yésir)であった。連盟が最初の秘密集会をブリュッセル市で開催したのは、1934年の8月であった。H・スペンサー・ルイスは1934年から1939年に亡くなるまで、FUDOSIにおいて精力的に役割を果たした。
FUDOSIは崇高な理想の数々を掲げていたが、地に足が着いたものでは全くなかった。まず、数名の若いベルギー人の参入者が、この連盟を利用して、自分たちの独自の構想によって神秘学の世界を支配しようとした。さらに、ベルギー国内で活動を指揮していたのはエミール・ダンティーヌではなく、ジャン・メランジェ(Jean Mellinger)であったが、メランジェは、異なる手法や哲学に従う複数の団体が集まった組織には不向きな性格をしていた。結局のところ、国家間の緊張関係によってヨーロッパが引き裂かれ、ほとんどの国がすぐに、悲惨な戦争の中に投げ込まれることになった。ラルフ・M・ルイスの伝えるところによれば、FUDOSIの役員の一人が、次のような、受け入れ難い立場を採るように求めていた。第一に彼は、連盟に加入する全ての組織が、それぞれの組織の発展と活躍のために、彼の個人的構想に従うべきであると強く主張し、さらにその役員は、アモールクの会員にアフリカ系の人々が含まれているという事実に不快感を表明したのであった。ラルフ・M・ルイスは、この言語道断な発言をした人物の名を明かしていないが、その発言がダンティーヌ自身あるいはジャン・メランジェから出たものであることは、容易に想像がつく。ちなみにルシアン・サバ(Lucien Sabah)が公表にした文書によると、この2人の人物は徹底的な人種差別主義者で、ヴィシー政権(訳注:第二次世界大戦下のフランスの親独臨時政府)のような『ユダヤ=メーソン陰謀説』の話題に固執していた。このような姿勢を、FUDOSIの他のメンバーたちがどれほど嘆いていたかは想像に難くない。
H・スペンサー・ルイスの人種に対する考え方は、いつも明確であったことを記しておこう。ルイスにとって、人種の優劣は存在しなかった。ルイスは、1930年に出版された著書『転生の周期』(Mansions of the Soul)でこう述べている。「……あらゆる個人は、互いに絆で結ばれていて、全てのソウル(魂)は結合して、ひとつのソウルになっていると古代人は理解していた。この2つの事柄は、万物の源泉を通じて、人類の全てには共通する性質があるという確信の礎になっていると言うことができる。そして、この2つの事柄によって、人種や信条や皮膚の色や、他の個人的要素の違いにかかわらず、人類のすべては、ある創造者のもとで、兄弟姉妹であり、共通の本質を持ち、同じ生命力を有し、同じ意識を持っているということが確かな事実となっている」。別の文献でルイスはこう記している。「一個の人間として私は、黒人の人たちに同情の念を抱いている。というのも、初期キリスト教の時代に、偏見と不寛容と誤解によって、ユダヤの人々が国や土地や財産や高い地位を失う苦難を耐え忍ばなければならなかったのと全く同じように、黒人の方々も苦難を耐え忍ばなければならなかったからである」。
全体としてはFUDOSIの主な構成員は、社交やスピリチュアリティを好む名士で、寛容の精神と人類愛をルイスと分かち合っていた。一方で、アメリカ人の革新的で前衛的な考え方は、古い伝統に縛られていたヨーロッパの人々にしばしば衝撃を与えていた。
FUDOSIの活動は、戦争のために1939年から1945年の間は中断され、1946年にやっと再開された。最後の集会に参加したのはラルフ・M・ルイスであった。1939年8月2日に、彼の父であるH・スペンサー・ルイスがこの世から旅立った後も、ジャン・メランジェと水面下では対立していたにもかかわらず、ラルフ・ルイスは連盟のために働いていた。しかしながら、外的な状況は以前と同じではなかった。FUDOSIを構成する各団体は、ある程度有名になり、それによって、象徴的記号や名称や式典を盗用される危険からはすでに守られていたので、連盟をこれ以上続行する理由はほとんどなくなっていた。こうして1951年8月14日、メンバーはこの連盟を解散することを決定した。
バラ十字会の活動の歴史は、H・スペンサー・ルイスの“旅立ち”によって、新たなページがめくられた。ルイスはアモールクの創設という主たる役割を果たし、神秘学の世界に大きな影響を及ぼしたが、さらに、様々な分野に興味を抱いている人物であった。アメリカ合衆国内で5番目のプラネタリウムと、アメリカ西海岸で最初の、古代エジプト学の博物館を建設したことを思い起こすべきであろう。その数年前には、ニューヨーク市で初の私的なラジオ局を開局し、番組の大半は文化的・哲学的な内容に充てられていた。そして、ルイスが制作した、神秘学的で象徴的なテーマの膨大な数の絵画も加えて思い起こすべきであり、その一部は国際的な評価を得ることになった。またルイスは、数々の慈善団体や慈善協会の会員でもあり、彼の最も優れた点は、多くの人に知られているように、人道主義者であることであった。あらゆる非凡な人が必ずそうであるように、H・スペンサー・ルイスももちろん、批判や中傷にさらされたが、今までに述べてきたように、燃えるような熱意と信念をもって、バラ十字思想のために奉仕してきた。バラ十字会に伝え続けられている知的な財産へ、H・スペンサー・ルイスがなした多大なる貢献は取るに足らないものでは全くなく、決して見過ごされることはない。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.118)の記事のひとつです。
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