バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その4  バラ十字のこだま(後半)

クリスチャン・レビッセ

聖なる霊の館

 この入門儀式的な東方への旅の後、クリスチャン・ローゼンクロイツはヨーロッパへと戻った。帰途、彼はスペインに立ち寄り、彼がこの旅で学んだものをスペインの学者達と分かち合うことにした。ファーマ・フラテルニタティスによると、彼は学者達に「古い哲学とは一致(調和)しない新たな発展と新たな果実と獣を見せ、全ての物事を完全に元通りにする新たな公理を規定した。しかし学者達はそれを笑い飛ばしてしまった。彼らには新しいことであったので彼らの名声が損なわれることを恐れたのだった。・・・」クリスチャン・ローゼンクロイツはすぐに、この学者達は自分達の知識に疑問を持たれたくないのだと悟った。ファーマ・フラテルニタティスの著者にとってスペインの学者たちは、疑問を持たれて彼らの権威が疑われる危険にさらされることを望んでいない、ある教理に固執していた人々を象徴していた。 

 スペインの学者達の閉鎖的な態度と、また他の国々でも同様の批判に遭い、クリスチャン・ローゼンクロイツは絶望してドイツへ帰国した。そこで彼は東方で入手してきた知識の概要を書き記すことに着手した。彼の狙いは、ヨーロッパの王子達が光の指導者になるよう教育できる社会をつくることであった。五年の仕事の後、クリスチャン・ローゼンクロイツは彼の計画を援助する最初の三人の弟子たちに囲まれていた。このようにして、バラ十字友愛組織が誕生した。この<達人>と弟子達は一緒に、『Mの書』の最初の部分を書いた。次にさらに四人の兄弟たちが加えられて友愛組織が拡大された。そして「サンクティ・スピリタス(Sancti Spiritus、聖なる精霊の館)」と呼ばれた新しい建物に引っ越した。この友愛組織は控え目であり続け、クリスチャン・ローゼンクロイツは1484年に106歳でこの世を去った。

 最初のバラ十字会員たちのグループが亡くなってから長い年月が経った1604年、会の兄弟たちはバラ十字の建物の土木工事をしていたとき偶然にクリスチャン・ローゼンクロイツの墓を再発見した。墓の扉の上には、「120年後に 私は開く」との碑文が刻まれてあった。「宇宙の概要」として考えられたこの洞窟の中に、彼らはそれまでに知られていなかった科学的な多数の器材と、彼等の<達人>によって集められた知識のすべてが収められた幾つかの文献を発見した。

クリスチャン・ローゼンクロイツの墓

 数多い古い手稿が保存された神秘的な墓の発見は、錬金術文献ではしばしばあるテーマである。バシル・ヴァレンティ(Basil Valentine)の例では、ドイツのエルフルトにある教会の祭壇の下から文献が発見されたとされており、これはメンデスのボロスの例を思い出させる。さらにもっとよく知られているのは、ティアナのアポロニウスによるヘルメス・トリスメジストスの墓の発見である。この後者のほうでは、彼はこの墳墓を発見したとき、一人の老人が王座に腰掛けていて、有名なエメラルド・タブレットの文が刻まれていたエメラルドの碑石を持っていたと言っていた。更に、彼の前には人々の創造の秘密と万物の原因についての知識を説明する一冊の本があった。この象徴的な体系は、どのようにして「哲学者の石を発見することによって地球の内部を訪れる」ことができるかの概念に触れていた。ゲルハルト・ドルン(Gerhard Dorn)はその著書、Congeries Paracelsicae Chemiae (1581) で、「エメラルド・タブレット」と題される錬金術の図画とヘルメスが関連付けられていることから、この意味を同様にヘルメス・トリスメジストスに密接に結び付けられている「硫酸(Vitriol)」という言葉に与えた。更にヘルメスがその両手に持っていたエメラルド・タブレットは、クリスチャン・ローゼンクロイツの「Tの書」(BookT)の前兆であるかのように見受けられる。

 フランシス・イェーツ(Frances Yates)によると、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓が発見された地下の部屋はハインリッヒ・クンラスのAmphitheatrum Sapientiae (1609) に描写されていた「イルミナティの洞窟」によって示唆されたものだったかもしれない。安らかなクリスチャン・ローゼンクロイツの体が完全に保存されていた墓は洞窟の中心に置かれていたが、その墓には、七つの壁面があった。その墓は不思議な語句が刻まれた真ちゅう製の銘版で覆われていた。そこに示されていたものの一つには、「真空はどこにも存在しない。」と主張されていた。これは我々がすでに述べた論議について言及しているのであるが、その事実はさておき、この言葉は『ヘルメス錬金術大全』の「論文Ⅱ」の中のヘルメスとアスクレピウスの対話を思い出させる。我々がまもなく理解することになるように、第三のバラ十字宣言書は、ヘルメス・トリスメジストスの作とされる文献からの多くの引喩を含んでいる。

パラケルススとローゼンクロイツ

 クリスチャン・ローゼンクロイツの墓の中から現れたとされている様々な文献の中でも、とりわけ注目すべきなのはローゼンクロイツが両手に持っていた、『シオフの語彙集』(Vocabulary of Theoph:Par.Ho.)と呼ばれている『Tの書』である。後者の文献は、おそらくはパラケルススの語彙集のうちの一つであろうが、パラケルススの語彙集でとりわけ有名なのは、パラケルススの門人であったゲルハルト・ドルンによって1584年に出版されたDictionarium Theophrasti Paracelsi continens obscuriorum vocabularum….である。ここではパラケルススがファーマ・フラテルニタティスに引用された唯一の著者であることに注目すべきである。さらにはこの宣言書の中で展開された数々の主題は、パラケルススの著作あるいはその弟子達の著作から来ている。前述した『Mの書』は、パラケルススの思想に直接触れている。我々はこの主題についてここで探求することはしないが、それについてはコンフェシオ・フラテルニタティスについて検討する時がより良い機会となるだろう。一方ここでは、とりわけこの最初の宣言書の中に見られるパラケルススの錬金術の概念を指摘しなくてはならない~特にそれが<偉大な仕事>に触れている方法についてである。つまり、バラ十字会員の霊的な手順は『ほとんど重要でない予備的な仕事』とされている点である。この見地に立つと、バラ十字は当時ドイツ国内に普及していた錬金術的方法からそれ自身を分離させていたことになるが、当時のドイツの錬金術は無視できない過剰を引き起こしていた。

 クリスチャン・ローゼンクロイツの墓の中から発見された知識の財宝の数々が集められた後、バラ十字会の兄弟達は再び墓を閉じた。不変の原理に基づいたこの遺産によって強化され、彼らは彼ら自身が、以前に彼らの達人によって想見された「聖なる人道的な全般的改革」をも導く立場にあるのだと感じた。ファーマ・フラテルニタティスは、墓の入り口を隠していた壁を打ち壊して兄弟達が知識の財宝を発見したのと同様に、ヨーロッパは発展を阻む壁のような役割をしていた古い信念を破棄したあと自身を新しい時代に開くことになる事を明らかにしている。しかしながら、ファーマ・フラテルニタティスが述べているように、バラ十字会員達が提案した知識は、「・・・新たに発明されたものではなく、アダムが陥落した後に受け取ったもの」であった。このようにそれは、ある人々が永続させようと没頭している失われた知識を復活させることからなっていた。さらには、最初の宣言書はこの「原初の伝統」の伝達者たちであった様々な人々の名前を挙げていた。それらの名前は、同様の状況下でマルシリオ・フィチーノによって述べられていたものを思い起こさせる。

ハスルマイヤー

 ファーマ・フラテルニタティスはその刷新された知識を分かち合うことによってバラ十字友愛組織に参加するよう科学者達とヨーロッパの君主達を誘って終わっている。しかしながらこの訴えは、以下のように明記されている限りにおいて特異なのものである。「・・・今の時点では我々は、我々の氏名も集会場所も言及しないが、とは言え、人々の意見は、これまでに存在しているどんな言語であっても確かに我々の許に届くのであり、我々のうちの何人かの名前を、口に出してあるいは何かに書いて(すなわち発行するようなこと)公表しようとする者は失敗に終わることはないであろう。」この陳述は結果的にバラ十字の会は「永遠に触れられることがなく、破壊されることもなく、悪意ある世間には隠されていることになる・・・」ことを示している。このメッセージは伝え聞かれ、バラ十字への公開書簡はヨーロッパの様々な場所で発行された。それらのうちの一つが最初のバラ十字宣言書の終わりに出版された分である。この手紙の原典は、1610年にチロルで宣言書の手稿が出回っているのを読んだ後で、「賞賛すべきバラ十字友愛組織会員の神知論者達への回答」と題するアダム・ハスルマイアー(Adam Haselmayer)が1612年に出版したものである。著者達の多くは、ハスルマイヤーが架空の人物であると考えていた。しかし、辛抱強い調査によってこのパラケルスス主義者の伝記を再現させることに成功したカルロス・ギリー(Carlos Gilly)によって、ハスルマイヤーは実在の人物であることが証明された。

 アダム・ハスルマイヤーは、膨大な錬金術の手稿の収集家であり、ファーマ・フラテルニタティスに大変乗り気になっていたので、彼は大公マクシミリアンにバラ十字の研究をするために助成金を出してもらうように願ったのであった。彼の「バラ十字宣言書への回答」の本文は「セプテントリオン(北)のライオン」の予言に強く影響されていた。時の終わりが近いと信じていた彼は、バラ十字会員たちは「<創造主>がテオフラスタス的で聖なる永遠の真実を広めるために選んだ者たち」であると感じていた。彼はまた、教会に行くことは無意味であると信じていた。この態度によって彼は異端の嫌疑をかけられることになった。このような声明を撤回することを拒んだため、ハスルマイヤーはとがめられ、1612年の10月にガレー船漕ぎの刑に処せられた。彼はそこに四年半いた。とは言え、彼はこの特別な待遇を楽しんでいたらしく、刑を受けている間中、同じように錬金術に熱心なたくさんの人々と手紙で連絡を取り合っていた。それにもかかわらず、カルロス・ギリーによると、アダム・ハスルマイヤーの熱中度は極端すぎ、バラ十字哲学とぴったり一致してはいなかった。

ヘルメスとローゼンクロイツ

 前にも述べたように、最初の宣言書が、秘伝主義が栄光の位置にあった改革の計画を主張していたのは、この道徳的危機の状況の下においてであった。バラ十字会員達はルネッサンス秘伝主義の主流に自分達を置き、それにさらに特別なあるキリスト教神秘思想を加えていた。我々はまた、この最初の宣言書は、全ての厳格な宗教・宗派に対してと同じように、秘伝主義風を大げさにほめる人々からも距離を置くことをなんら躊躇しなかったことに注目したい。バラ十字会員達はパラケルスス主義に強く特徴付けられた楽観的な企画における科学、秘伝主義、そして神秘主義に近づくことを望んでいた。ルネッサンス主義に定義されていた「原初の伝統」の中にきちんと身を置き、バラ十字会はエジプトを二次的な役割へと追放した。不可解なヘルメス・トリスメギストスは、アイザック・カゾホンによって1614年にその正当性が損なわれ、もっと人間的な人物、クリスチャン・ローゼンクロイツに取って代わられたのであった。このローゼンクロイツなる人物は本当に存在したのか、それともただの象徴として機能したに過ぎなかったのだろうか?この最初の宣言書を書いたのは、誰だったのだろうか? 我々はこれらの疑問に次の記事で触れ、第二のバラ十字宣言書、コンフェシオ・フラテルニタティスについての検証を始めることにする。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.87)の記事のひとつです。

 

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