宣言書(manifesto)
第1部
序言
FOREWORD
親愛なる読者のみなさん、
あなたに直接お伝えする方法がわからなかったので、この宣言書(マニフェスト)を通して私たちの思いをお伝えすることにします。あなたが心を開いてこの宣言書をお読みくださり、少なくとも何かを感じていただけることを私たちは願っています。私たちの願いは、この宣言書「バラ十字友愛組織の姿勢」に完全に同意していただくことではなく、何にも束縛されることなく、あなたとこの宣言書を共有することです。もちろん私たちは、この宣言書があなたの心の何かに触れることを願っています。しかし、もしもそうでなくても、どうぞ寛容な心で受け入れてください。
▽
1623年、バラ十字会はパリのあらゆる場所の建物の壁に、好奇心をそそる謎めいたポスターを貼りました。それにはこう書かれていました。
「私たち、すなわち〈バラ十字の高位の大学〉の評議員は、見える方法でも見えない方法でもこの街に滞在しているが、それは〈正義の人〉が心を向ける〈至高の存在〉の恵みのおかげである。滞在を選んだ国々のあらゆる言語を話すことができることを、書物も符号も使うことなく、私たちは実演し、教授するが、それは友人を死の過ちから救い出すためである。」
「ただの好奇心から私たちに会おうとする人は、決して私たちを見出すことはない。しかしもし、私たちの友人として登録されることを、その人が真剣に願っているならば、その意志を審判する私たちは、この街での集会の場所を知らせることはしないが、私たちのなす約束の真実をこの人が見られるようにする。なぜなら、探究者が真の望みを持って願うならば、その思いは私たちを彼のもとへ、そして彼を私たちのもとへと導くからである。」
この数年前、それぞれ1614年、1615年、1616年に発行された「バラ十字友愛団の声明」、「バラ十字友愛団の信条告白」、「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学的結婚」という現在でも有名な三冊の宣言書の出版によって、バラ十字会は既に世間に名を知らしめていました。当時、この三冊の宣言書は、知識階級の人々だけでなく、政治の世界や宗教界の高い地位の人たちにも多くの反響を呼んでいました。1614年から1620年の間に、およそ400もの小冊子や、写本や、書籍が出版されました。そのうちのあるものは、三冊の宣言書を称賛し、あるものは非難するものでした。このことを見てもわかるように、この三冊の宣言書の出版は、歴史的に重要なできごととなりました。秘儀的な側面を持つ思想の世界においては、特にそうでした。
一冊目の「バラ十字友愛団の声明」(Fama Fraternitatis)は、当時の政治的指導者や宗教的指導者、そして科学者に向けられたものでした。ヨーロッパの全般的な状況についてはかなり否定的な見解を述べている一方で、クリスチャン・ローゼンクロイツ(1378-1484)の比喩的な物語を通して、〈バラ十字会〉の存在をこの書は明かしていました。この物語は、〈バラ十字友愛団〉を誕生させる以前のローゼンクロイツの世界中への旅で始まっており、彼の墓が発見されるところで終わっています。この宣言書は、その時すでに〈全世界的な改革〉を求めて叫んでいました。
二冊目の「バラ十字友愛団の信条告白」(Confessio Fraternitatis)は、一方では人類と社会を再生させることの必要性を主張し、もう一方ではその再生をなし遂げることのできる哲学的知識を〈バラ十字友愛団〉が有していることを指摘して、第一の宣言書を補っています。この書は主として、バラ十字会の活動に参加することを望み、人類の幸せのために力を尽くしたいと願っている探究者たちに向けて書かれたものです。この文書の予言的な側面は、当時の学者たちの興味を大いにそそりました。
三冊目の「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学的結婚」(Chymical Wedding of Christian Rosenkreutz)は、先の二つの宣言書とは幾分異なる形式で書かれており、〈啓発〉への探究を描写した入門儀式を象徴する旅を物語っています。その七日間の旅の大部分は、謎めいた城を舞台にしており、その城ではある王と女王の結婚式が行われることになっていました。〈入門者〉のソウル、つまり魂を花嫁になぞらえ、〈創造主/神〉を花婿になぞらえて、ソウルと〈創造主/神〉が結び合うことができるように〈入門者〉を導いてくれる精神の発達のことを、「クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚」は象徴的に物語っていました。
当時の歴史家や思想家や、哲学者たちが力説していたとおり、これら三冊の宣言書の出版は非常に重要であり、時機を得た適切なものでした。ヨーロッパが政治的に分断され、経済的利益をめぐる争いによって引き裂かれ、深刻な存在の危機を体験していた時期に、これらの宣言書は発行されました。宗教戦争は不幸と荒廃の種を蒔き、家族の間にさえ分裂を生じさせていました。そして科学は急速に発達しつつあり、すでに物質主義の傾向を表していました。大多数の人々の生活は惨めなものでした。当時の変わりゆく社会は、徹底的な転換の最中にありましたが、一般の人たちの利益のために発展するという指針を欠いていました。
歴史は繰り返します。同じできごとが周期的に再現され、しかも以前よりも大きなスケールで再現するものです。そして、最初の三冊の宣言書の発行から、ほぼ5世紀を経た現代において、世界全体、特にヨーロッパでは、政治、経済、科学、テクノロジー、宗教、道徳、芸術といったあらゆる領域で、前代未聞の存在の危機に直面していることに気づかされます。そのうえ、私たちが暮らしそこで進化しつつあるこの惑星は、重大な脅威に直面しており、比較的最近の科学である生態学の重要性を上昇させています。現代の人類には何の問題もないとは言えません。そこで、現代の〈バラ十字会〉は、私たちの〈伝統〉と〈理想〉に忠実に従い、この宣言書「バラ十字友愛組織の姿勢」を通して、この危機を訴えることが賢明であると考えました。
この宣言書「バラ十字友愛組織の姿勢」は、いわゆる終末論的な論評とは一線を画すものです。また、決して黙示録のようなものでもありません。先に述べたように、この宣言書の目的は、今日の世界の状況に関する私たちの見解を述べ、その未来を私たちが憂えていることを明らかにすることです。私たちのかつての兄弟たちが、当時既に行っていたように、私たちもまた、これまで以上に「ヒューマニズム」と「精神性」を訴えていきたいと考えています。というのも、現代社会に広がっている個人主義と物質主義では、人々が当然の権利として望んでいる幸せを人間にもたらすことはできないということを私たちは確信しているからです。この宣言書を人騒がせに思う人たちもいることも確かでしょう。しかしこのような格言があります。「自分の意志で聞くことも、見ることもしない人よりも、耳も聞こえず、目も見えない人がいるだろうか。」
今日の人類は、悩み苦しみ、混乱しています。物質的に大きな進歩を遂げてきましたが、それによって本当の幸せはいまだにもたらされてはいませんし、穏やかな未来を予見することもできないでいます。戦争や飢饉、伝染病や生態系の大変動、社会的危機や基本的自由に対する攻撃などは、現在も続いている多くの悲惨なできごとのうちのほんのいくつかにすぎません。そして、それは人間が未来に対して抱いている希望とは全く相反するものなのです。耳を貸していただける方に向けて、このメッセージを書こうと私たちが考えたのはこうした理由からなのです。このメッセージは、17世紀のバラ十字会員たちが、最初の三冊の宣言書で表現したメッセージと同じ伝統の下にあります。しかし、そのメッセージを理解するためには、歴史という偉大な書物を現実主義に基づいて読み解き、人類に関して明確な見解を持たねばなりません。つまり、今も進化の途上にある男女から構成されている偉大な人類という集団に関する見解です。
バラ十字会の姿勢
POSITIO R+C
この人生に関わるすべてのものや、宇宙そのものと同じように、人は常に進化しています。これは目に見える世界のあらゆるものに共通する特徴です。しかし、人間の進化は、存在の物質的な側面だけに限られているのではないと私たちは考えています。私たちにはソウル(魂)があること、つまり非物質的な側面があることを私たちは確信しています。私たちに伝えられている知識によれば、ソウルによって私たちは意識を持つ存在となり、自分自身の起源や宿命について思索することができます。したがって、人間の進化はひとつの目的であり、精神性はひとつの手段であり、時間は啓発に導いてくれるひとつの要素であると、私たちは考えています。
歴史を理解させてくれるのは、歴史を織りなす個々の事件ではありませんし、歴史が生み出した個々の結果でもありません。むしろそれぞれの事象を貫く関連性によって、歴史を理解することができるのです。それに加えて、歴史にはより大きい全体的な意義があるのであって、歴史の全体的な流れの中で、ひとつひとつのできごとを理解する必要があるということを今日の歴史家たちの大部分が認めています。つまり、正しく歴史を理解するためには、あるできごとを単に独立して起こった事件として考えるのではなく、より大きな全体の一部分として、注意深く考察しなければなりません。ひとつのできごとは、より大きな全体の一部分であり、全体との関係を考えることによってはじめて、本当の歴史的な意味がわかると私たちは考えています。ひとつの事件をより大きな全体から分離して考えることや、いくつかのできごとを取り除いた歴史から教訓を作り出そうとすることは、知的な偽善です。ですから、連続して起こったり、近接した場所で起こる事件、同時発生した事件など、どれひとつとして、本当に偶然に起こっているものはないと考えられます。
序言で述べたように、現在の世界の状況と17世紀のヨーロッパの状況は類似していると、私たちは考えています。人々が「ポストモダンの時代」と呼ぶ高度な資本主義は、現代の生活の多くの部分にかなりの影響をもたらしており、不幸にも、人間の堕落を引き起こしました。しかし、このような堕落はほんの一時的なものであり、ひとりひとりにも人類全体としても再生が訪れるに違いないと私たちは考えています。しかしそれは、人類が「ヒューマニズム」と「精神性」という方向性を未来に与えるならばという条件付きでのことです。もしそうしなければ、現在直面している問題よりもはるかに深刻な事態に、まさに身をさらすことになります。
バラ十字会の存在論の観点から、地球上で生きている全ての生き物の中で、人間が最も進化していると私たちは考えています。この地位にふさわしくない恥ずべき振る舞いを、たとえ人間がしばしば行っているとしてもです。
人間がこの特権的な地位にあると主張する理由は、私たちには自己を認識する力と自由な意志が授けられているので、自身が選ぶとおりに人生を考え、方向付けることができるからです。また、ひとりひとりの人間は、全人類というひとつの体を構成する細胞のひとつひとつであると私たちは考えています。この原則に基づいて、生まれた国や住んでいる国家に関係なく、すべての人間が同じ権利を持つべきであり、同じ敬意が払われるべきであり、同じ自由を享受するべきであるというのが、私たちの「ヒューマニズム」の考え方です。
「精神性」に関する私たちの考え方の基礎となっているのは、ひとつには〈創造主/神〉(注)が〈絶対的な知性〉として存在しており、宇宙とその中にある全てのものを創造するという確信であり、もうひとつは、ひとりひとりの人間には、〈創造主/神〉を源とするソウルがあるという確信です。
(注:一般に「創造主」、「神」と呼ばれている知性によって、この宇宙の秩序が説明されるという考え方にバラ十字会は同意していますが、この存在は人格ではないと考える点と、信仰に基づくのではなく、その性質を科学的に探求しようとする点で、バラ十字会の考え方は宗教とは異なっています。)
さらに、創造されたもの全ての中に、〈創造主/神〉はさまざまな法則を通して表現されており、より素晴らしい善をなすために、その法則を学習し、理解し、尊重しなければならないと私たちは考えています。さらに、人間は〈創造主/神〉の定めた計画の実現に向かって進化しており、人間は地球上に理想的な社会を創造することを宿命づけられていると私たちは考えています。この精神主義的なヒューマニズムはユートピア的な空想だと思われるかもしれません。しかし、プラトンが著作の「国家」(The Republic)の中で述べている以下の言葉に、私たちは同意しています。「ユートピアが理想的な〈社会〉の形態である。おそらくそれをこの世でなし遂げるのは不可能であろう。しかしユートピアにこそ、賢明な人はすべての望みを置かねばならない。」
この歴史の転換期において、人間が再生する可能性はかつてよりも高まっていると私たちは考えています。そのような意識が共通化してきていること、国際的な交流が一般的になってきたこと、異なる文化圏の交流によって豊かな成果が生み出されていること、情報の国際化が進んでいること、異なる分野の学問にまたがる共同研究の発展などがその理由です。しかし、このような再生は個人と人類全体の両方で起こるべきであり、それはあらゆる意見や可能性を検討し、最適な選択をすることと、その自然な結果として生まれるはずの寛容によってのみもたらされると私たちは思っています。政治制度や宗教や哲学や科学のいずれにも、真実に対する独占権はありません。しかし、それぞれの分野が人類のために提供すべき非常に重要な要素を、人類が共有することができるならば、私たちは真実に近づくことができます。それはつまり、多様性を通してひとつになることを求めることへと戻っていくことになります。
人生の移り変わりを実感することで、遅かれ早かれ、私たちはこの地上での自分自身の存在の理由を思索するように導かれます。このように存在の理由を探究することは、ごく自然なことです。というのも、そのような探求は人間のソウルのうちの欠くことのできない一部分であり、私たちの進化の基礎となっているからです。さらに、歴史に大きな足跡を残したできごとは、その事実が存在したというだけでは正しいと証明されるわけではありません。そのためには、単なる存在を超える、そのできごとが起きるに至った高い次元の理由が必要です。この「存在理由」(レゾンデートル:raison d’être)に突き動かされ、人間は人生の神秘について自問するようになり、哲学的な探究の道を進むことになると私たちは考えています。つまり、進化の途中のある時点において、人々は神秘学と「真実の探求」に対して、関心を抱くようになるのです。私たちはこうも考えています。真実の探求が当然のものであるとすれば、人間には、自身の本質から発せられる命令によって、そして、生き延びようとする生物としての本能によって、希望を心に抱き、ものごとを楽観的に考える力が与えられています。ですから、物質的な限界を超えたいという強烈な願いは、人類が生きていくために不可欠な要素であるように思えるのです。
ここからは、それぞれのテーマについて私たちバラ十字会の見解を述べていきます。 まず政治に関しては、現在の政治システムを完全に一新することが絶対に必要であると私たちは考えています。20世紀の主要な政治モデルの中でも、マルクス・レーニン主義と国家社会主義(ナチズム)は、当時はおそらく最も信頼がおけるとされていた社会的思想背景に基づいていましたが、理性の衰退とそして最終的には野蛮な社会状態をもたらしました。この二つの全体主義的なイデオロギーは、当然のことながら自分自身について決定する権利を求めることに反することになり、その結果人間が自由を求める権利を否定し、同時に歴史の最も暗い数ページを書き出したのでした。やがて歴史は、このふたつのイデオロギーが不適格であると宣言しました。この決定が永遠であることを望みましょう! 単一の画一主義的な観念に基づく政治的システムは、どんなものであっても、“救済の教理”を人々に押しつけようとするという点で、多くの場合共通しています。ここでいう“救済の教理”とは、人々を不完全な状態から解放し、楽園のような状態に上昇させようという考え方です。加えて、このような政治システムの大部分は、国民に対し、考えることではなく信じることを要求します。そのような政治システムは結果的に、人々を“どの宗派にも属さない宗教”に結び付けることになります。
それとは逆に、私たちバラ十字会の考え方は、単一主義的ではなく、誰にでもオープンで、しかも多元的な見方をするものです。言い換えると、他者との対話を奨励し、人間関係を深めようとするものです。同時にバラ十字会の思想は、ものごとには見解がいくつもあること、人々の行動様式は当然ながら多様であることを受け入れています。そのような思考の方法は、意見の交換や、相互に影響を与え合うこと、そしてときには矛盾によってさえ育てられていくものです。しかし、全体主義的なイデオロギーは、そのようなやり方を禁じたり、避けたりしています。このような考え方の相違から、全体主義的な政治システムには、さまざまな性質のものがありましたが、常に一貫してバラ十字思想を拒絶してきました。私たちの友愛組織は創設された当初から、個人が自分自身の観念を自由に形成し表現する権利を提唱してきました。この点で、バラ十字会員は必ずしも自由思想家ではありませんが、全員が自由に思索しています。
今日の世界の状況を見ますと、本当の民主主義は、弱点が全くないと言うわけではありませんが、それでも今なお政治の最良の形態であると思われます。思想と表現の自由に基づいた真正な民主主義においては、一般に、治められている側の人々の間にも、国を治めている側の人々においても、多種多様な傾向があります。残念なことに、このように多様であることで、しばしば分裂が起こり、その結果としてさまざまな論争を引き起こされます。悲しいことですが、そのために、ほとんどの民主主義国家で分裂が起こり、分裂した勢力は絶えず衝突し、ほぼ組織的に互いに敵対しています。このような政治的な対立は、たいていの場合多数派と反対派という両極端に人を引きつけてしまうことが多いのですが、もはや現代社会にとってふさわしいものではなく、人類の再生を阻害しているように私たちには思えます。国家の政務を運営管理することのできる非常に有能な人材を集め、総合的な統治機関を創設するためには、各々の国家が協力することが理想的です。さらに言えば、いつの日にか、すべての国家を代表する全世界的な規模の政府ができることを、私たちは望んでいます。現在の国際連合は、ちょうどその萌芽なのかもしれません。
経済に関しては、世界の状況は完全にさまよっている状態だと私たちは思っています。経済システムが、ますます人間の活動に影響を与えるようになっていることを誰もが理解しています。そしてこれは日常的なことになりつつあります。今日のように経済が社会を支配している状況によって、社会のネットワーク構造の形態が相当な影響を受けています。そのため、その表れ方はさまざまですが、社会構造が経済にコントロールされています。他方、今日の経済は明確な評価に従って機能しており、それらの評価は、以前にも増して定量化が可能となっています。そのような評価には、生産コスト、損得分岐点、利益の評価、労働時間等々があります。これらの評価は、現在の経済システムにとって基本的なものであり、目的をなし遂げるための手段をシステムに提供しています。しかし不幸なことに、その目的は基本的に物質主義的なものです。なぜなら、その目的は、過度に利益を上げ、資産を増やすことに根ざしているからです。このようにして、現在では、人間が経済に奉仕するかのようになっていますが、本来は経済が人間に奉仕するべきなのです。
今日すべての国家は、全体主義的であるとも言える世界規模の経済システムの属国であるかのようです。この経済的な面での全体主義は、何億人もの人々の最も基本的なニーズすらも満たしてはいません。その一方で、通貨の供給は、かつてこれまでになかったほど、世界規模の膨大なものになっています。このことは、産み出された富が少数の人々だけに恩恵を与えていることを意味しています。私たちはそれをとても残念に思っています。また、最も裕福な国家と最も貧しい国家との不均衡が止まることなく拡大しつつあることに私たちは注目しています。各国の最も貧しい階層と最も恵まれた階層との関係にも、格差の拡大という同様の現象を見ることができます。その理由は、経済があまりにも投機的なものになってしまったために、現実の市場や利益ではなく、むしろバーチャル(仮想現実的)な市場と利益を、経済が供給しているからであると私たちは考えています。
疑いもなく明らかなことですが、人類全体のために役立つときにだけ、経済はその役割を十分に果たすことができます。このことから私たちは、お金というものが本来どうあるべきかという考えに導かれます。つまり、お金とは、人々が物質的な世界で幸せに暮らすために必要としているものを、全ての人に供給するための交換の手段であり、エネルギーであるという考え方です。そのように考えるならば、貧しいことや、ましてや貧困に窮することが宿命である人は、人類にひとりもいないことを私たちは確信しています。その反対に、人間としての幸せのために役立つすべてのものを持つように定められており、その結果、完全な心の平安を得ながら、より高いレベルの意識に向けて自身の精神を向上させることができるようになると考えています。絶対的な意味で、もう貧しい人々は存在せず、すべての人々が物質的に満足できる状態を享受するように経済は用いられなくてはなりません。なぜならば、それが人間の尊厳の基本だからです。貧困は宿命ではありません。ましてや、天が下す命令の結果でもありません。一般的に言って、貧困は人間の利己主義の結果です。ですから、共通の利益を共有し、配慮することに基礎を置く経済システムが確立される日が来ることを私たちは望んでいます。しかし、地球の資源は無尽蔵ではなく、無限に分け合うことはできません。ですから、人口過剰な国では特に、出生率をコントロールしなければならなくなることは確実でしょう。
科学に関しては、特に危機的な局面に及んでいると私たちは考えています。科学が非常に進歩し、それによって人類がかなりの進歩を遂げることができたことは、実際のところ誰も否定できません。もしも科学の発達がなかったならば、私たちはいまだに石器時代にいることでしょう。しかし、ギリシア文明期の科学の研究においては、対象の質的な面を理解することが行われていましたが、17世紀には量的な概念をより重視する研究が確立されることにより、非常に大きな変化が起こりました。この変化は、経済の発展と密接に結びついています。機械論、合理主義、実証主義などは意識と物質を2つの全く異なる領域に分けてしまい、あらゆる現象を主観性のない計測可能な存在へと限定してしまいました。方法を問う「どのようにして」(how)が、理由を問う「なぜ」(why)を排除してしまったのです。過去数十年の間に行われた研究が、重要な発見をもたらしたことは事実ですが、経済の競争が他のすべてよりも優先されているように思え、現在私たちは、科学的物質主義の頂点に到達しています。
私たちは科学を私たち自身の意志に従わせるのではなく、自身を科学のしもべにしてしまっています。今日、単純な技術的な障害がこの非常に進んだ社会を危機に陥れることがありえます。それは質的なものと量的なものとの間の不均衡だけでなく、私たち人間と人間が作り出したものとの間にも、不均衡を引き起こしてきたことを証明しています。今日人間が科学の研究を通して追い求めている物質主義的な目的は、多くの人の精神を混乱させてしまう結果となりました。同時に、このような物質主義的な目的は、私たちを自分自身のソウルから、そして、私たち自身に内在するこの上なく神聖なものから遠ざけてしまいました。科学によって過剰に合理化されることは、目前に迫った危険であり、遅かれ早かれ人間を脅かすことになります。実際に、意識よりも物質が優先される社会は、どんな社会であれ、人間の本質にあるはずの高貴さを失わせてしまいます。したがって、そのような社会は、その社会が早々に消え去るように、自体に有罪の判決を下しているようなものです。そして、たいていの場合は悲劇的な状態で消え去るのです。
科学はある程度“宗教”のようになってしまっています。しかし、逆説的ですが、それはいわゆる物質主義的な宗教です。科学には、宇宙や自然や人類自身への機械論的なアプローチに基づいた独特の信条や教義があります。「目に見えるものだけを信じよ」と「科学の外には真実はない」というものです。それにもかかわらず、方法や手段(how)に関して行われた研究は、原因や理由(why)という疑問へと科学を導き、それによって少しずつ科学は、自体の限界を認識するようになってきています。そしてこの点で、神秘学と同意しはじめています。実際にはまだほんの少数ですが、一部の科学者たちは、〈創造主/神〉の存在を認めるに至っています。古代においては、科学と神秘学は非常に類似したものであったこと、そして科学者は神秘家であったこと、逆もまた事実であったことに注目しなければなりません。私たちが今後の数十年間にしなければならないことは、まさに、この二つの知識の道を再び一つにするために努力することです。
「知識」という問題をもう一度考え直すことが必要です。たとえば、ある経験を再現することができることにはいったいどんな意味があるのでしょうか。また、実証することのできない信条は、どんな場合も必ず間違っているのでしょうか。17世紀に起こった合理的な二元論を超えることが緊急の課題であるように思えます。というのも、真の知識というものは、二元論を超越し、拡大したものの中にあるからです。このことに関連して述べれば、人が〈創造主/神〉の存在を立証することができないということだけでは、〈創造主/神〉が存在しないと断言するのに十分ではありません。真実には多くの側面があります。合理性の名の下に、さまざまな側面のうちのひとつだけしか思い起こさないことは理性を愚弄することです。また、理性的である、あるいは理性的でないということを正しく説明することができるでしょうか。科学が偶然の存在を信じている場合、科学自体は理性的だといえるでしょうか。実際のところ、偶然を信じないことよりも、偶然を信じることの方が、よほど私たちには理性的でないように思えるのです。この話題に関しては、私たちの友愛組織は、偶然という一般的な観念に、常に反対の立場であったことを述べておかなければなりません。偶然という観念は、現実と直面したときの、安易な解決法であり、あきらめであると私たちは考えています。アルバート・アインシュタインが、「偶然」について、「〈創造主/神〉が匿名でありたいと思うときに採る道である」と表現した見解に私たちは同意しています。
科学の進歩は倫理的な面でも哲学的な面でも、新しい問題を引き起こしています。以前は不治の病とされていた病気の治療法に関して、遺伝学の研究が信じられないほどの進歩を可能にしたことは否定できません。しかし一方で、遺伝学の研究は、クローン技術によって人間を創造する操作を許すことへの道を開いてしまったのです。このような生殖の形態は、人類という種を遺伝学的に衰退させ、退化へと導くだけです。さらにそれは、主観に基づいて選別の基準を決めることを必然的に意味しており、その結果として優生学の問題に関わる場合には危険な要素をはらんでいます。加えて、クローン技術による複製は、人間の肉体的、物質的な部分だけを考慮しており、精神やソウルには特別な注意を払っていません。以上のことから、このような遺伝学的操作は、人間の尊厳を傷つけるだけではなく、人間の精神面、サイキック面、魂の健全さにも害を与えると私たちは考えています。この点で、「良心を伴わない科学は、魂の破滅を招く」という格言に、私たちは同意しています。人間が他の人間をふみにじる行為は、歴史の全体を通して悲しい記憶だけを残してきました。したがって、特に人間の、そして一般的には生物全てのクローン複製技術に関する実験に自由を与えることは、危険なものに思えます。動物と植物の遺伝的構造に影響を与える繰作にも、私たちは同じような恐れを抱いています。
テクノロジーの領域でもまた、急速な変化が進行していることに私たちは注目しています。人類のまさに夜明けの頃から、人々は生活の状態を改善し、作業をより効率的にするために、道具と機械を作ることを常に試みてきました。特に実用的な面では、この欲求にはもともと3つの重要な目標がありました。それは、人の手では作れないものを作れるようにすること、痛みや疲労を免れること、そして時間を節約することでした。もちろん、何百年もの間、あるいは何千年もの間、テクノロジーは人間の手作業と身体の働きを助けるためだけに使用されていました。しかし今日では、知的な領域においても、テクノロジーは私たち人間を助けてくれています。そのうえ、かなり長い期間にわたり、人間が直接操作することが必要な機械的なプロセスに限ってテクノロジーは用いられており、環境に対してはほとんど、あるいは全くといいほど害を与えることはありませんでした。
今日、テクノロジーはあらゆる分野に普及し、現代社会の核を成しており、ほぼ不可欠なものになりました。テクノロジーの用途は幅広く、現在ではあらゆる種類のプロセス、たとえば機械、電気、電子工学、コンピュータなどの分野を作り上げています。不幸なことですが、機械が人間自身に対する脅威となってしまったことはテクノロジーの負の側面です。理想的には、機械は人間を助け、私たちから若痛を取り除くように意図されていました。しかし今や機械は、人間に取って代わりつつあります。しかも機械化によって、人間どうしの触れ合い、すなわち直接のスキンシップがかなり減ってきたという意味で、機械化の進行はますます社会における人間性の喪失をもたらしているということは否定できません。これに加えて、あらゆる種類の公害が工業化によって生じています。
テクノロジーによって現在起きている問題は、人間の意識の進化の速度よりも急速にテクノロジーが進歩してきたという現実から生じています。現代は物質主義が重要視されていますが、そこから脱却して、テクノロジーはヒューマニズム(人間主義)を代弁するものにならなくてはならないと私たちは考えています。それを実現するためには、再び人間を社会構造の中心に置くことが不可欠です。 それはつまり、経済に関して提起したことと同様に、機械が人間に奉仕するようにするように立ち戻ることです。 それをなし遂げるためには、今日の社会の基礎を形成している物質主義的な価値に対して、徹底的に問いかけ、見つめなおすことが必要です。
そのためには、全ての人が自身の生き方を修正し、人生の質の向上を尊重しなくてはならないことや、時間にまつわる過熱した競争を止めねばならないことを理解することが必要です。 しかし、自然と調和して生きるだけでなく、自分自身とも調和して生きる方法を人々があらためて学んだときにだけ、このようなことが可能になります。 テクノロジーが人間を非常に困難な作業から解放し、それと同時に私たちが他の人と触れ合いつつ調和して進化することが可能になるように、テクノロジーが進歩していくことが理想なのです。