バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その13 マギのバラ園(前半)

クリスチャン・レビッセ

 19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、バラ十字の花々が咲き乱れた。これらの動きには概ね、我々が知っている過去のバラ十字会員たちと共通するところは何もなく、成功の度合いが様々であったが、これらの運動はそれぞれ、バラ十字の庇護の下に自分たちを置こうとしていた。先の記事でこういった団体の設立については論じたので、ここで「マギのバラ園」へと誘われ、我々の調査研究を続行してゆくことにしよう。

モンテ・ベリタ(真実の山)

 19世紀に起こった産業革命によってヨーロッパ社会は大きく揺さぶられ、既存の社会構造が根底から覆された。特にドイツがこの危機に見舞われ、工業化社会を拒否する兆候が1870年代に表れた。都市化へのひとつの抵抗として、「自然主義」(Naturism:ナチュリズム)運動の形をとって労働者階級の再編成が生じた。自然主義の信奉者たちは汚染された都市から逃れて、自然と調和して生活することができる地域社会や田園都市を造ろうと唱えた。1892年に始まった「生活改革」運動(Lebensreform)を中心として、この観点を取り入れた諸団体が数多く生じた。17世紀の一連のバラ十字宣言書と、その後に続いたユートピア文学とは対照的に、「生活改革」運動は科学的進歩を脅威であると見なした。そこには芸術家はもちろんのこと、菜食主義者や自然主義者、心霊主義者、自然療法家や衛生学の信奉者たち、そして神智学協会などの団体が含まれていた。

 この運動の一端として、神智学者でスイス人のアルフレード・ピオダ(Alfredo Pioda)が1889年に平信徒の修道会を立ち上げようとした。その会は名称にフラテルニタス(友愛会)を使用し、スイス南部のティチーノ州にあるアスコーナ市近くのモンテ・ベリタ(真実の山の意)にあった。エレーナ・ペトロブナ・ブラバツキー(Helena Petrovna Blavatsky)と親交のあったフランツ・ハルトマン(Franz Hartmann)とコンスタンツェ・ヴァハトマイスター伯爵夫人(Countess Constnce Wachtmeister)が、このはかない計画に加わっていた。この体験がインスピレーションとなって、フランツ・ハルトマンが「スイスのバラ十字協会」を書いたのであろうことは疑うべくもない(前回の記事参照)。そしてフラテルニタスの残骸の中から、類似した意図のある共同体が立ち上がってきた。それは「モンテ・ベリタ」(Monte Verità)という名称の、アンリ・オーデンコッヘン(Henri Oedenkoven)とイーダ・ホフマン(Ida Hofmann)が1900年に設立した共同体である。数多くの著名人たちがモンテ・ベリタを訪れた。その中には、文豪ヘルマン・ヘッセや、後に哲学者となったマルティン・ブーバー(Martin Buber)、政治家グスタフ・ランダウアー(Gustav Landauer)、リトミックの発明者エミール・ジャック=ダルクローズ(Êmile Jacques-Dalcroze)、舞踏芸術の振付師かつ理論家であったルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban)らが含まれていた。

東方聖堂騎士団

 「モンテ・ベリタ」の足跡を詳しく辿ってゆくと、ベリタ・ミスティカ(神秘の山)が姿を現して来る。それは「東方聖堂騎士団」(O. T. O. : Ordo Templi Orientis)のロッジである。この団体は1893年ごろに設立され、1902年から英国バラ十字協会(S. R. I. A.)のドイツ支部の指導者をしていたテーオドール・ロイス(Theodor Reuss)に率いられていた。ロイスはHスペンサー・ルイス博士への手紙に、「東方聖堂騎士団」の役員の地位を自らが受諾したのは、ウィリアム・ウィン・ウェスコット(William Wynn Westcott)を喜ばせるためであったが、ウェスコットの真の目的はロイスの所持するドイツとオーストリアのバラ十字会の各種文書を入手することであったことが後になってから判明したと書いている。 実際に「東方聖堂騎士団」は、過去のバラ十字会員たちの仕事を継続していると主張していた。ロイスの説明によれば、この組織は一種のフリーメーソン系の学園であり、その真の機能は「真の正統派の」バラ十字会員たちの直接の末裔である秘密のバラ十字会を隠すことであった。そしてこの会の秘密の諸本部はロイスの管轄下にあり、総本部は、ライプツィヒ市近郊、チューリンゲンの森林地帯に位置しているとロイスは主張した。そして、ロイス自身は1893年の7月にカール・ケルナー(Carl Kellner)の手によってこの組織へ入会したと述べている。

 実際には、ガストン・ベンチュラ(Gastone Ventura)の指摘によれば、カール・ケルナーは東洋への旅から戻った後、フランツ・ハルトマンとハインリッヒ・クライン(Heinrich Klein)の助けを借りて「東方聖堂騎士団」を設立した。ケルナーはアラビア人僧侶のソリマン・ベン・アイファ(Soliman ben Aifa) とヒンズー教の導師ブヒーマ・セナ・プラタパ(Bhima Sena Pratapa)とタントラ・ヨガの師スリ・マハトマ・アガムヤ・パラマハンサ(Sri Mahatma Agamya Paramahansa)によって古代の神秘に参入したと言われていた。 見てのとおり、ここにはバラ十字思想は全く含まれていない。ロイスが東方聖堂騎士団に入会したのはケルナーの死後の1902年ごろに過ぎない。そこで、彼の入門が正式なものであるかは大いに論議されるところとなった。入門証書を授けるにあたって、それを全くの商業行為とする運営をロイスが行った後には、特にそれが疑問視されることとなった。フランスでは評論「L'Acacia」がこの問題を明らかにしている。しかしパピュス(Papus)は、他の人々と同様にかなり長い間惑わされていた。

 後に、第一次世界大戦(1914-1918)の嵐が吹き荒れている最中に、「東方聖堂騎士団」はモンテ・ベリタにおいて平和主義者の会合を組織することによって、新たな光のもとに出現することとなった。ルドルフ・フォン・ラバンは「太陽への賛歌」(Song to the Sun)という儀式形式の劇を、ワーグナー風のバルレ舞台にして上演した。「東方聖堂騎士団」の団員としてラバンは、その補佐的組織である「バラ十字国際貴婦人連合会」(Alliance Internationale des Dames de la Rose-Croix)の書記官でもあった。この連合会は、人種や宗教の違いを超えて人類の全世界的調和を図ることを目的としていて、分配を基本とした利他的経済を提唱し、芸術は、戦争によって傷ついた人々を癒すために提供される最良の手段であると考えていた。この考えはジョゼファン・ペラダンの切実な思いでもあった。しかし、この理想郷を目指す計画は成功しなかったようである。結果として「東方聖堂騎士団」には、それほど輝かしい時期があったわけではない。アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)は、望ましくない魔術の実践のいくつかへと人々を導く一因になったが、このような魔術の実践にはバラ十字思想やフリーメーソンとの共通点は何ひとつなかった。

黄金の暁団

 先の記事で「英国バラ十字協会」(S. I. R. A.)の誕生について検討した。今回の記事の初めに提示したような欧州大陸での出来事が終わりを告げると、「英国バラ十字協会」の指導者たちはイギリスで、「黄金の暁ヘルメス友愛組織」(Hermetic Order of the Golden Dawn)と呼ばれ、一般には「黄金の暁団」として良く知られている新たな組織を作った。1887年にウェストコットは、暗号化された儀式書の手稿を五種類集めた。これらの手稿はバール・シェム・トブ(Ba'al Shem Tov)が所持していて後にエリファス・レヴィに渡ったもので、古書店にあった一冊の「16世紀と17世紀のバラ十字会員の秘密の象徴」の中で発見されたものであった。事の顛末はさらに続き、そこにはドイツのバラ十字会代表アンナ・シュプレンゲル(Anna Sprengel)の挨拶文も含まれていたと言われていた。彼女と接触した後、ウェストコットとサミュエル・リデル・メイザース(Samuel Liddell Mathers)とR・ウィリアム・ウッドマン(R. William Woodman)はロンドンにイシス・ウラニア・ロッジを設立し、その後すぐにフランスのオウトイユ(Auteuil)にアタトール(Athathoor)ロッジを創った。こうして「黄金の暁ヘルメス友愛組織」が誕生し、サミュエル・メイザース(哲学者アンリ・ベルクソンの義弟)が指揮を取った。入門儀式形式の組織の大部分と同じように、その発祥には神秘的なうわさがまとわりついている。というのも、アンナ・シュプレンゲルなる人物が存在した確証はなく、暗号化された手稿はおそらく英国バラ十字協会員のケネス・マッケンジー(Kenneth MacKenzie)によって作り上げられたとみられるからである。

 「黄金の暁団」には、16世紀と17世紀のバラ十字思想・運動とはきわめて異なる特徴があった。実際、その儀式の数々にはルネッサンス期の魔術やクリスチャン・カバラから広範囲にわたって借用してきたものが含まれていた。これらの儀式の多くは、精神的錬金術に基づいた神秘学の傾向が強い、この当時より以前のバラ十字会員たちによって既に放棄されたものであった。おそらく「黄金の暁団」の儀式は、メイザースが頻繁に研究していた文献「神聖な魔術、あるいは魔術師アブラムランの本」(La Magie Sacrée ou le livre d'Abramelin le mage)や、同じくメイザースが自らの著書に活用していたコルネリウス・ハインリッヒ・アグリッパの魔術書の大部分から着想を得たものであろう。この会はエジプト様式の象徴を採用し、タロットカードの研究にかなりの重点をおいていた。「黄金の暁団」は「英国バラ十字協会」で使用されていた位階を踏襲し、「紅バラ黄金十字会」(Ordo Roseae Rubeae et Aureae Crucis)という内陣組織も含んでいた。
統領メイザース(1854-1918)の指揮の下、「黄金の暁団」は迅速に成功を収め、1888年から1900年にかけては入門儀式形式の有力な組織となっていた。数多くのフリーメーソン会員や神智学協会員らが「黄金の暁団」のロッジに参加し、その中には1923年にノーベル文学賞を受賞したウィリアム・バトラー・イエーツ(William Butler Yeats)や、作家オスカー・ワイルドの夫人コンスタンス・ロイド・ワイルド(Constance Lloyd Wilde)、英国学士院学長のジェラール・ケリー(Gerard Kelly)などの著名人たちも含まれていた。しかし組織は分裂・分離の憂き目に遭い、W. B. イエーツの「ステラ・マチュチナ・テンプル」(Stella Matutina Temple)や、後に「ヴァイオレット・フェース(別名ダイアン・フォーチュン(Dion Fortune)の『内なる光協会』)」(The Society of the Inner Light with Violet Firth)となった「アルファ・オメガ」(Alpha Omega)、A・E・ウェイトの「バラ十字組合」(Fellowship of the Rosy Cross)などの分派が対抗しあうこととなった。また、「アストルム・アルゼンチヌム」(Astrum Argenitinum)を立ち上げた黒魔術師アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)を見落とすべきではないだろう。

ジョゼファン・ペラダン

 イギリスに「黄金の暁団」が現れ活躍している間に、フランスではジョゼファン・ペラダン(Joséphin Péladan, 1858-1918)が当時の道徳観念を描いた小説「至高の悪徳」(Le Vice suprême, 1884)を出版した。この特異な作家は、20世紀のバラ十字運動の発展に重要な役割を果たした。彼の著書を読んだものは誰もが、ペラダンがあらゆる秘伝知識に非常によく精通していることに気づくだろう。とりわけ、彼の秘伝科学に捧げられた大作「ピエール・クリスティアンによる魔術史」(Histoire de la magie de Pierre Christian, 1870)にはそれが顕著である。「至高の悪徳」の主人公は魔術師メロダック(Mérodack)であるが、彼は異常な秘伝学者ではなく、むしろ高貴な理想に仕えるためにその知識を利用する参入者であった。

 バルベー・ドールヴィリ(Barbey d'Aurevilly)による賞賛の序文が添えられたこの本は、たちまちこの年若い作者に成功をもたらした。スタニスラス・ド・ガイタ(Stanislas de Guaita, 1861-1897)はこの作家の、最も暖かい読者の一人だった。11月のある日、ガイタはペラダンに手紙を書き、ペラダンに対する賞賛の意を表明し、その後二人は会うことになり、それから友人となった。彼らの往復書簡が示すことによれば、当時ガイタは秘伝哲学の分野の初心者であったという。「私は忘れまい、あなたのご本によってヘルメス学を知り、学び始めたことを。」と彼は手紙ではっきりと述べている。

トゥールーズ市のバラ十字会員

 ジョゼファン・ペラダンは、フランス初のホメオパス(同種療法医)の一人である兄のエイドリアン・ペラダン(1844-1885)から秘伝学の知識を得ていた。エイドリアンは、聖職者でキリスト教ヘルメス学者のポール・ラクリア(Paul Lacuria, 1806-1890)の弟子であったが、一方ラクリアはファーブル・ドリヴェ(Fabre d'Olivet)の門人であった。エイドリアン・ペラダンは、1878年にフィルマン・ボワサン(Firmin Boissin, 1835-1893)によってバラ十字会の入門儀式を受けて入会したと考えられている。ジョゼファン・ペラダンはボワサンのことを「会の最新の支部、すなわちトゥールーズ市支部のメンバー」であると話していた。そしてボワサンは「トゥールーズ市支部以前に出来たバラ十字の殿堂の指導者であり、〈14人評議会〉の長」であるとも見なされていた。このトゥールーズ市のバラ十字会支部には、外交官経験がありトゥールーズ市の錬金術医であった子爵エドアール・ド・ラパス(Edouard de Lapasse, 1792-1867)も属していた。実際、この子爵は1860年に「バラ十字会は秘密組織のひとつであり、現代においてもいくらかの熟達した信奉者がいる」と評している。子爵はこの会の一員であると自ら述べたことはないが、ボワサンは子爵が亡くなったときに、正しいか正しくないかはともかくとして、「この高名な友愛組織の最後の会員」として旅立ったと述べ、「子爵はバラ十字会員に対する良い評判を宣伝する機会があれば決して見逃すことはなかった」と述べた。

 子爵はダルバネス伯爵夫人(Comtesse d'Albanès)邸で開かれていた社交サロンに好んで参加していた。そこにはシャルル・ノディエ(Charles Nodier)、ピエール・バランシュ(Pierre Ballanche)、コーレフ博士(Dr. Koreff)、ドゥルシュ(d'Ourches)伯爵、カゾット(Cazotte)の息子らも集い、マグネティズムや錬金術やカバラやマルティニズムについて語り合ったという。1839年12月の会合で、子爵は「バラ十字の聖なる精髄」で満たされた水晶製のフラスコを人々に見せ、その液体の成分には、パレルモ市(シチリア島北西岸の港町)郊外に住む隠者バルビアーニ公爵(Prince Balbiani)から手に入れた特別な露も含まれていたという。ラパス子爵は、1825年から1831年にイタリアに逗留していた間に、バラ十字会員であると考えられているこの隠者と出会った。カグリオストロと会っていたというこの隠者は、子爵に錬金術の作業の手ほどきをした。最後に、子爵は「砂漠の友の会」の設立者アレクサンドル・デュ・メージュ(Alexandre Du Mège)をよく知っていたことも付け加えておこう。さらに子爵はデュ・メージュのあとを継ぎ、南フランス考古学協会(Société Archéologique du Midi)を指揮した。また子爵はデュ・メージュやフィルマン・ボワサン同様、「花遊び学会」(Académie des Jeux Floraux)と呼ばれる文学サークルの一員でもあった。

 トゥールーズ市のバラ十字会とは、厳密には一体どういうものだったのだろうか?この子爵がバラ十字会の一派を創設したのだろうか?ラパス子爵やボワサンやペラダンの述べたことを読んでいくと、トゥールーズ市のバラ十字会は十分に組織化された会だったのではなく、1860年前後に、エイドリアン・ペラダンに入門儀式を授けたボワサンを含む何人かの熟達した信奉者からなる小さな集まりだったようである。またトゥールーズの会員たちは、あからさまに敵意を表わしてくる人々に対して、フリーメーソンと混同されることを避けて、自分たちを守っていたことも知られている。

バラ十字カバラ団

 ジョゼファンがデビュー作の成功を満喫していた1885年の9月29日に、兄のエイドリアンは薬剤師が誤って調合した薬によって亡くなった。エイドリアンの訃報を知らせる「トゥールーズのメサジェ」(Le Messager de Toulouse)紙の記事には、エイドリアンがバラ十字会員であったと述べられていた。本文は「カトリック教徒のR+C」(un R+C catholique)と署名されていたが、この謎めいた署名の背後にいたのはこの新聞の編集長を務めていたボワサンであった。後者は、印刷業者ポール・エドアール・プリヴァ(Paul Êdouard Privat)を通じて写真家のクローヴィス・ラサール(Clovis Lassalle)と面識があったこととをここに付け加えておこう。そして後に、H. スペンサー・ルイス博士がトゥールーズ市でこのラサールと会うことになる。

 この時期に、ジョゼファン・ペラダンとスタニスラス・ド・ガイタの友情は確かなものへと発展して行き、ペラダンの勧めで、ガイタがボワサンと接触した。1886年の8月12日付けの手紙でガイタは、友人ボワサンから学究的な長文の手紙を受け取ったことをペラダンに知らせている。ボワサンの名前の真ん中に十字のしるしを入れる(Bois+sin)のは奇妙な書き方であるが、この文通以来ガイタは、自分の書いた手紙にR+Cと署名するようになり、ペラダンのことを「親愛なるフレール(mon cher Frère)」と呼ぶようになった。このことにより、ボワサンが指揮する会に彼が受け入れられたと結論づけられるのではないだろうか。

 このころから、事態は急速に展開した。パリ市在住の秘伝学者たちの多くは神智学協会員だったが、神智学協会の行き過ぎた東洋思想に失望していた。その中にはパピュス(Papus)として知られているジェラール・アンコース(Gérard Encausse, 1865-1916)も含まれていた。医学を学んでいたパピュスは、パリ市内の「慈愛病院」(L'hôpital de la Charité) で催眠治療の調査研究をしていたジュール・ルイ博士(Jules Luys)といっしょに仕事をする機会があった。そこでオギュスタン・シャボソー(Augustin Chaboseau, 1868-1946)と出会い、マルティニスト会の存在を知った。1888年に指導者のルイ・ドラマール(Louis Dramart)が亡くなると、神智学協会のフランス支部は分裂した。パピュスは西洋のオカルティズムを復活させる機会を逃さなかった。彼は「秘伝学の基礎論」(Traité élémentaire de science occulte, 1888)を出版し、西洋秘伝主義を復活させ、各大学で扱われている他の科目と対等の地位をオカルティズムに与えようとした。

 その後の1889年9月に、アラン・カルデックの死後、心霊主義運動を指揮していたピエール=ガエタン・レーマリ(Pierre-Gaëtan Leymarie, 1817-1901)が心霊主義者とスピリチュアリストの国際会議を開催し、パピュスやF.-Ch. バルレ(Barlet)、オギュスタン・シャボゾー(Augustion Chaboseau)、シャミュエル(Chamuel)らが参加した。この重要な出来事によって、秘伝学研究者たちは神智学協会の活動から自由になり、特に1888年10月からパピュスが友人たちと発行した「L'Initiation」紙などは少なからぬ成功を収めはじめた。非宗教的な伝説に基づいて活動するために、秘伝学研究者たちはバラ十字運動とマルティニスト運動を新たに確立された殿堂の柱にしようとした。ジョゼファン・ペラダンとスタニスラス・ド・ガイタはこの計画に参与し、トゥールーズ市でのバラ十字会の活動が衰えていったときは、それを復活させることを決意した。「古代組織バラ十字会は現時点では休眠期にあるが、3年前(著者は1890年にこれを書いている)に、新たな組織作りによってバラ十字会を確固たるものとし、偉大なる伝統組織を正当に受け継ぐ2名の継承者が決定され……今や、復活した神秘の巨人の体全体に命が循環している。」

 このようにして、トゥールーズ市からパリ市へと移転し(1887-1888)、復興されたバラ十字会は「バラ十字カバラ団」(l'Ordre Kabbalistique de la Rose-Croix)となった。この組織は12人から成る最高評議会に指揮されたが、そのうちの6名は明かされなかった。その役割は、バラ十字会がどんな理由であれ解体されてしまった場合に、それを再建することであった。「12人評議会」には、時期はそれぞれであるがスタニスラス・ド・ガイタ、ジョゼファン・ペラダン、パピュス、A・ガブロール(A. Gabrol)、アンリ・ソーリオン(Henry Thorion)、F.-Ch. バルレ(Barlet)、オギュスタン・シャボゾー(Augustin Chaboseau)、ヴィクトール=エミール・ミシュレ(Victor-Emile Michlet)、 セディール(Sedir)、マルク・ハヴェン(Marc Haven)らが名を連ねていた。この組織は試験によって昇進する三つの位階(カバラ大学入学資格者、カバラ学士、カバラ博士)で構成されており、入門するにはマルティニスト会の位階S. I. の所持者でなくてはならなかった。

テンプル聖杯バラ十字会

 「L'Initiation」紙のおかげで、「バラ十字カバラ団」は一般によく知られるようになり、その門前には熱心な秘伝学研究者たちの長い列ができた。トリュデーヌ通り(Trudaine Avenue)のアパートメントの一階で隠者のように暮らしていたガイタは、パピュスに組織の運営を任せていた。しかし、ジョゼファン・ペラダンのような芸術家で移り気な気質の者は、強固な意志で組織を運営するパピュスと全くそりが合わなかった。パピュスは組織をもっと大きく広げようとした。反対にジョゼファン・ペラダンは、慎重に選ばれた入門者だけに限定しようとし、パピュスが組織に課そうとしたフリーメーソン的な側面とは調和しなかった。この二人の言い分を和解させることは、とりわけジョゼファン・ペラダンがオカルティズムと魔術に関心をもっているとパピュスを非難したため困難を極めた。さらにペラダンは、バラ十字カバラ団の高い地位にあったアルタ神父(Abbé Alta)と共に、パピュスがオカルティズムと秘教主義を混同していると非難した。1891年の2月17日にペラダンがパピュスに送った絶交の書状は、「L'Initioaion」紙4月号に掲載された。

 伝統の継承者として、使命を全うできない瀬戸際に立たされたと感じたペラダンは、袂を分かつ決意をし、すでに1884年の最初の小説「至高の悪徳」にその概要を素描していた「テンプル聖杯バラ十字会」(「テンプル聖杯カトリック・バラ十字会」とも呼ばれていた)を1891年5月に設立した。1891年6月、ペラダンは自らこの組織のグランドマスターとなり、サール・メロダック・ペラダン(Sâr Mérodack Péladan)と名乗った。この出来事に関しては、「Le Figaro」紙が少なからぬ紙面を割いて多くの関連記事を載せ、人々に広く知れ渡ったため、パピュス本人や、ペラダンの脱退を非難していたパピュスの友人たちをひどく怒らせることとなった。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.107)の記事のひとつです。

 

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