バラ十字会の歴史
その13 マギのバラ園(後半)
クリスチャン・レビッセ
芸術の魔法
テンプル聖杯バラ十字会が「メーソン的な堕落に汚されず、すべての異端者を浄化し、ローマ教皇から祝福される」のをジョゼファン・ペラダンは夢見ていた。そして彼は、「ノートルダム大聖堂に足を運び、主イエスの例にならって、この聖堂への敬意を表し、バラ十字の恭順を示したい」と願っていた。というのもこの組織は、バラ十字会の伝統と聖堂騎士団の伝統の統一を目指して設立されたからである。たとえば、「アド・ロサム・ペル・クルケム、アド・クルケム・ペル・ロサム、イン・エア、イン・エイス・ゲムマトゥス・レスルガム」(Ad rosam per crucem, ad crucem per rosam, in ea, in eis gemmatus resurgam)に、聖書の「詩篇」115章(ギリシャ語版113章B)から採られ聖堂騎士団が既に使っていた「ノン・ノビス、ドミネ、ノン・ノビス、セド・ノミニ・トゥオ・グロリアエ・ソラエ」(Non nobis, Domine, non nobis, sed nomini tuo gloriae solae)を加えてペラダンは座右銘を作っている。
ジョゼファン・ペラダンが設立したテンプル聖杯バラ十字会は、バラ十字会と聖堂騎士団と聖杯騎士団の3つの旗印のもとで設立されたのだが、真正な入門儀式形式の組織ではなかった。基本的には、芸術家たちが集まる非聖職者友愛組織の形を取っていた。設立者自らはこの組織のことを、「知的慈善事業を行う友愛組織であり、〈聖霊〉と調和した慈愛事業の達成のために尽力し、〈王国〉の用意をするために、〈精霊〉の栄光を拡大するよう努める。」としていた。ペラダンは、「知識人の国際友愛結社」の設立を望んでいた。その目的は、物事に基礎と美を与える手段としての伝統とともに、理想への礼賛を復活させることであった。実際、ペラダンにとって、芸術に表現された美は人類を〈創造主〉へと導くことができるのであった。したがって彼にとって芸術とは「神聖な使命」であり、完璧な作品とは魂を向上させることの出来る作品であった。当時は明らかに衰退の時代であると考えていたペラダンは、芸術の魔法は差し迫った大災厄から西洋世界を救う最良の方法であると確信していた。
象徴主義
ジョゼファン・ペラダンの計画は、ラファエロ前派芸術家(Pre-Raphaelite)と象徴主義者(Symbolist)の活動の後に続くものであった。前者は、ビクトリア朝時代の型にはまった絵画の貧相さへの反発として1848年に英国で起こった「ラファエロ前派協会」(Pre-Raphaelite Brotherhood)のメンバーの事である。この会はまた、効率性を上げることにとりつかれた工業化の時代にも反対し、芸術と職人の技術の再生のために活動していた。ラファエロ前派運動の創始者は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)、ウイリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais)であり、後にエドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)、ウィリアム・モリス(William Morris)らが加わった。彼らは中世の芸術を理想とし、16世紀の画家ラファエロ以前に描かれた伝統的な絵画を理想とし、それが理由で「ラファエロ前派」と命名された。特に彼らは、ルネッサンス期の画家フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)やルネサンス期以前のイタリアの画家の作品を賞賛した。このイギリスの運動のさきがけになったのは、聖ルカ修道会であり、一般にはナザレ派として知られ、国外追放されたドイツとオーストリアの画家たちが1809年に当時廃屋であったローマ市の修道院で設立したものであった。ラファエロ前派は「新ゴシック様式」(Neo-Gothic style)を創出し、イギリスでは「ゴシック復古調」(Gothic Revival)と呼ばれた。著述家にして画家であり教授であり美術評論家であったジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)が彼らの指導役を務めていた。
作家かつ美術評論家であったジョゼファン・ペラダンは、芸術家たちが集まってイギリスで起こしたこの芸術運動と同様のことをしようとしたフランス象徴主義者たちの間で、自身が「ラスキン」の役割を担っていると考えていた。1886年9月15日に発行された、「フィガロ」誌(Le Figaro)の文学増刊号に宣言文を書き、すでに始まってから約15年も経過しているこの芸術運動を公式なものとしたのは、ジョン・モレアス(Jean Moréas)であった。その構成員には詩人や作家、音楽家や画家などがいたが、彼らは行き過ぎたロマン主義運動と自然主義運動に反発した。彼らは説明的なものではなく隠喩的で象徴主義的なものを好んだ。そしてエマニュエル・スエデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688-1772)によって考え出された「対応の理論」を発見して、その規則を詩の中に採用したシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の作風を倣おうと考えた。象徴主義者たちはまた、「香りと色彩と音が対応する」世界の秘密の調和と戯れることを好んだ。
神秘学と秘伝学が、象徴主義者たちの重大関心事から外れていたわけではない。ギィ・ミショー(Guy Michaud)は秘伝哲学のことを、「象徴主義運動を動かしている神経であり、鍵である」と見ていた。ここではこの傾向の例として、その特徴がよく表わされているヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de l'Isle-Adam, 1838-1889)の作品をいくつか列挙する。レミ・ド・グールモン(Rémy de Gourmont)はリラダンのことを「仮面の本」(Le Livre des masques)の中で、「現実世界の悪魔祓い師で、理想世界の門番」であると述べている。リラダンはアストラル体や心霊主義(spiritism)やマグネティズムや催眠術の理論にまつわる小説「クレール・ルノワール」(Claire Lenoire, 1887)を著した。「アノンシアトゥール」(L'Annonciateur, 1888)と「ヴェラ」(Vera, 1874)には、エリファス・レヴィ(Éliphas Lévi)の「高度な魔術の教義と儀式」(Dogme et rituel de la haute magie)から彼の語彙を取り入れている。バラ十字会員を描いたリラダンの傑作「アクセル」(Axël, 1872-1886)は、この著者が小説「ザノーニ」に見出したバラ十字哲学に強く影響を受けている。さらにリラダンは、エドワード・ブルワー・リットン卿の小説「イシス」(Isis, 1860)も源泉としている。またリラダンは、オギュスタン・シャボソー(Augustin Chaboseau)と親しい友人であったし、ヴィクトール=エミール・ミシュレ(Victor-Emile Michelet)やジョゼファン・ペラダンやパピュスなどの、マルティニスト会とバラ十字カバラ団の要職にあったメンバー全員と知り合いだった。リラダンはオカルティズムの主題を平易に表現したのだが、あらゆる世代が秘伝学への興味をかき立てられることとなった。
しかしながら、作家以上に象徴主義の画家は私たちに関係が深い。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)、フェルディナンド・ホドラー(Ferdinand Hodler)、ピエール・ピュヴィス・ド・シャルバンヌ(Pierre Puvis de Chavannes)、オディロン・ルドン(Odilon Redon)、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)といった画家たちは、当時の画壇のリアリズムと対立した。彼らの多くが、作品を個人のサロンで展示し、無料で公開した。ジョゼファン・ペラダンは彼らを芸術の神秘家にしようとした。ペラダンはリアリズムを破壊し、理想の芸術運動を起こすことによってラテン風芸術を改革したいと考えていた。ペラダンはこの目的を心に抱いてバラ十字サロン、すなわち一連の美術展を定着させ、その美術展は象徴主義運動の最重要の数年間として歴史に残る事となった。
荘厳
バラ十字展覧会に加わりたい芸術家たちが、テンプル聖杯バラ十字会(L’ordre de Rose-Croix du Temple et du Graal)に入会する必要はなかった。その唯一の参加条件とは、禁止された表現を絶対にしないことであり、禁じられていたのは、軍事的または歴史的風景の描写、ペットである動物の描写、そして「職業でも他の修業風景でも、描き手がそれに不遜さを示している場合」であった。バラ十字展覧会の主宰は、神秘的な、あるいはインスピレーションを与えるような宗教的作品、装飾的な風刺画や、崇高な裸体画などはあまり好まなかった。作品の選抜は、「荘厳」という肩書きを持つメンバーからなる審査団によって行われた。そのメンバーには様々な人がいたが、中でも特によく知られているのは、美術展の財政面を担当し、後にはナビ派の後援者となったラ・ロシュフーコー伯爵(Comte Antoine de la Rochefoucault)や、「フランス文学者協会」(Société des Gens de Lettres en France)で長い間事務局長を務めていたラルマンディエ伯爵(Comte de Larmandie)、そしてアカデミーゴンクール(Académie Goncourt)の会員で、ジョゼファン・ペラダンの着想に影響を受けたラ・ネフ(La Nef)などの書物の著者であるエレミール・ブルージュ(Élémir Bourges)や、まさに「荘厳」と呼ばれ、近代芸術の巨匠の一人としてシュールレアリストたちから賞賛された作家のサンポール・ル(Saint-Pol Roux)や、そしてガリ・ド・ラコローズ(Gary de Lacrose)らであった。
バラ十字サロン
こうして、テンプル聖杯バラ十字会の活動はもっぱら美術絵画の展覧会と夜会を開催することに捧げられた。最初のバラ十字サロンは、1892年の3月10日から4月10日にかけて、パリ市民の間で名高い画廊「Durant-Ruel」で開催された。美術展は、開会式典によって幕が切って落とされ、その目玉はなんと言ってもテンプル聖杯バラ十字会公認作曲家エリック・サティによって特別に作曲された楽曲であった。その曲「バラ十字のファンファーレ」(Les Sonneries de la Rose-Croix)はハープとトランペットによって演奏されるもので、「会のアリア」と「グランドマスターのアリア」、そして「大修道院長のアリア」から成っていた。この楽譜の表紙は、偉大な象徴主義画家の一人ピュヴィス・ド・シャバンヌ(Puvis de Chavannes)の鉛筆画で装飾されて出版された。展覧会の最後は「バラ十字の夕べ」(Soirées de la Rose-Croix)で締めくくられ、劇と音楽が献呈された。サール・ペラダンの「星の息子」(Le Fils des Etoiles)の一場面に、エリック・サティ(Erik Satie)作曲のハープとフルートの前奏曲が三曲つけられ、1892年の3月17日木曜日の夜に上演された。これに加えて、サール・ペラダンが芸術と神秘主義について講演を行ない、ヴァンサン・ダンディ(Vincent d’Indy)、セザール・フランク(César Franck)、リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)、パレストリーナ(Palestrina)、エリック・サティ、ベネディクトス(Benedictus)らの作品が演奏された。レミ・ド・グールモンは「メルキュール・ド・フランス」(Mercure de France)誌のコラムで、初のバラ十字サロンを「今年一番の芸術展」と称した。そしてあまりにもたくさんの人々が来場して交通が遮断されたため、群集整理のために警察官が動員された。閉場までの間に、来場者は22,000人以上を数えた。驚きの大成功を収めたことと、他国の芸術家たちも出席したことから、この展覧会は世界中に影響を与えることとなった。バラ十字サロンは、象徴主義運動における最も重要な出来事のうちのひとつであったと言える。
展覧会に出展した芸術家は193名にも登り、以下の人々も含まれていた。エドモン・アマン=ジャン(Edmond Aman-Jean)、エミール・ベルネール(Emile Bernard)、アントワーヌ・ブールデル(Antoine Bourdelle)、ウージェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)、ジョン・デルヴィル(Jean Delville)、シャルル・フィリジェ(Charles Filiger)、ジョルジュ・ド・フール(Geoges de Feure)、ウジェーヌ・グラッセ(Eugène Grasset)、フェルディナンド・ホドラー(Ferdinand Hodler)、フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff)、アンリ・マルタン(Henri Martin)、エドガール・マクサンス(Edgard Maxence)、ジョルジュ・ミンヌ(George Minne)、アルフォンス・オスベール(Alphonse Osbert)、ガエターノ・プレヴィアーティ(Gaetano Previati)、フェリシアン・ロップス(Félicien Rops)、ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)、カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe)、アレクサンドル・セオン(Alexandre Séon)、ヤン・トーロップ(Jan Toorop)。
全部で6回のバラ十字サロンが開催された。それぞれはカルデアの神々の庇護の元におかれ、第1回がシャマシュ(Shamash:太陽神)、第2回がネーガル(Nergal:火星の神)、第3回がマルダックあるいはメロダック(Marduk:木星の神)、第4回がネボー(Nebo:水星の神)、第5回がイシュタール(Ishtar:金星の神)、第6回がシン(Sin:月の神)であった。この最後の美術展は誉れ高いジョルジュ・プチ画廊(Galerie Georges-Petit)で1897年に開催された。問い合わせが殺到したため、191名の美術評論家と記者たちに内覧会が開かれた。その翌日には12,000人もの来場者がこの芸術の殿堂に列をなした。この展覧会が開催された後、ペラダンはテンプル聖杯バラ十字会の休止を宣言した。「私はここで手を引こう。これまで私が守ってきた芸術表現は、いまや至る所で受け入れられているし、洪水が去った後の浅瀬を渡るために案内人を呼んでくる者がいるだろうか?」 しかしながら、主だった象徴主義画家たちの不参加が、この美術展全体の続行に影響を与えたようである。ペラダンが最も買っていた画家ピュヴィス・ド・シャバンヌが、展覧会の終りのほうでは手を引いていたことは、この顕著な例である。またバーン=ジョーンズとギュスターヴ・モローもまた手を引いていた。この2人は、既成の芸術様式に反抗する気はなかったのだが、しかし弟子たちにはバラ十字サロンへの出展を勧めていた。
サール・メロダック・ペラダンは自らの最大の力を大衆に示した。しかし、ペラダンの風変わりな様子―アッシリア風のひげや髪型をして、すみれ色のベルベット地の服と、金の紐で飾りつけられたベストに、ラクダの毛で作られたバーヌース(アラビアのフード付き外衣)をまとって、鹿革のブーツを履いていた―は、人々に衝撃を与えた。この風変わりな衣装はカロプロソ・ピー(kaloprosopie)と彼が呼んでいた技術で作られたとのことで、この尋常ならぬ人物を風刺する機会を逃すことのないジャーナリストたちの注目を、数え切れないほど集めていた。この世紀の終わりには、他の多くの芸術家も、ブルジョア社会への反発として突飛な服を着て楽しんでいた。ペラダンは1918年に没するまで著作活動を続け、小説、戯曲、芸術および秘伝哲学に関する論文などから成る全集は19巻にも及んだ。
「薔薇の窓友愛組合」
ペラダンはジョン・デルヴィル(Jean Delville)に、ベルギーにおける芸術事業を一任していた。そしてブリュッセル市で開かれた理想主義芸術家(Idealist Art)の展覧会は、バラ十字サロンの続行であったと言える。ベルギーでは象徴主義者たちの活動が極めて活発であり、ペラダンも講演をしに度々訪れていた。デルヴィル率いるプールラール(Pour l’Art)と呼ばれる芸術家集団が、サール・ペラダンと、ブリュッセル市でのペラダンの代理人であり文学運動を起こしたレイモンド・ニスト(Raymond Nyst)に直接接触した。フランス国内においては、ジョゼファン・ペラダンを信奉するポール・ビュリオ(Paul Vulliaud)によって1906年に創刊された「理想主義者の対話」(Revue des entretiens idéalistes)誌が、理想主義の画家や彫刻家の作品の展覧会を1907年に開催して、バラ十字サロンを続行させようと試みた。この試みは短命に終わったが、テンプルバラ十字会と志を同じくするフレール・アンジェル(Frère Angel)によって1908年3月に設立された「薔薇の窓友愛組合」から起こったもので、活動は非常に地味であった。かろうじて4人以上の会員がいたこの団体に、ペラダンは何の興味も示さなかった。「薔薇の窓友愛組合」は、1909年5月に第一回目の美術展を開催し、1911年5月に第二回目を、そして1912年10月に第3回目を開催した後、消滅してしまった。
ファルケンシュタイン伯爵
ジョゼファン・ペラダンはパピュス一派からひどく軽蔑されていたが、ペラダンのテンプルバラ十字会が成功したとたん、バラ十字カバラ団に深刻な嵐が吹き荒れた。この時期、バラ十字カバラ団はある程度の活動を継続していたが、団には確固たる基礎がなく、加えてパピュスが与えた強いオカルト的側面が、団を本来のバラ十字精神から遠ざけてしまっていた。疑いなくこの理由によって、団の硬直化が急速に進んでいった。最初からの会員であったヴィクトール=エミール・ミシュレはこう記している。団は、「広い活動範囲がなく、創設者の早世以前に休止状態に陥っていた。」実際、バラ十字サロンの扉が閉められたのと同じ年に、バラ十字カバラ団はグランドマスターを失った。1897年12月19日、スタニスラス・ド・ガイタは早すぎる死を迎えたのであった。そしてバルレ(F.-Ch. Barlet)、別名アルベール・フォシュ(Albert Faucheux)が後継に選ばれた。ペラダンとの和解を試みた後、バルレはバラ十字カバラ団を不活動なままにまかせたので、その後間もなく、団はなくなってしまった。バラ十字カバラ団の新グランドマスターでさえ、団のバラ十字運動の起源に疑問を抱いていたのではないだろうか。1898年7月、彼は「L’Initiation」誌に、カール・キースヴェッター(Karl Kiesewetter)著による「バラ十字会史」の翻訳版を掲載した。カール・キースヴェッターは、バラ十字会が2つの「宣言書」(1614-1615)よりも以前から存在していたと主張した。キースヴェッターはバラ十字会の歴史を、1374年頃の統領ファルケンシュタイン伯爵や1468年当時の統領であったヨハン・カール・フリーゼン(Johann Karl Friesen)など歴代の指導者たちの伝記や言行録を通して詳細に述べた。しかしそれらの出来事は純粋に伝説でしかなく、キースヴェッターは歴史的信憑性に欠ける情報源に頼っていた。彼の主張の根拠は18世紀後半に書かれた写本のみであり、彼が指摘した史料はテアトラム・ケミカム(Theatrum Chemicum:化学の劇場)の第4巻であるというのだが、その中にキースヴェッターが引用した部分は含まれていない。
おそらくこの「会史」に支えられて、パピュスとバルレは、17世紀のバラ十字運動を自体の権威として使用していた同時代の他のバラ十字運動、―たとえば英国バラ十字会、黄金の暁団、テンプル聖杯カトリックバラ十字会など―との差別化を図ろうとしたのであろう。しかしその目論見は失敗に終わった。バルレは、パピュスがオカルティズムから距離を置くようになるとともに、ルクソル・ヘルメス主義者協会(H. B. of L.)とともに別の道を行ってしまった。1914年から1918年に起こった戦禍によって、オカルト研究者たちが華々しく活躍した時代は終わりを告げた。
マギのバラ園は、十分に生き残る力のある花々をうまく作ることはできなかった。しかし、科学が発展し、産業革命が社会構造を覆した時代において、それぞれの団体は、秘伝知識探求者の興味を引くという重要な役割を演じた。「マギ」の信奉者たちでさえ、しばしばオカルティズムと秘伝主義と神秘主義を混同したが、彼らの探求は、人類の叡智の遺産を永続させることに貢献し、それは、自身の起源と運命についての人々の疑問を育むのに必要であった。そして、トゥールーズのバラ園はすぐに新たな枝を伸ばし始める。実際にこの時、若きアメリカ人ハーヴェィ・スペンサー・ルイス(Harvey Spencer Lewis)が、バラ十字会員に会うため、「赤いバラの街」を訪れていた。そしてこの旅の後すぐに、バラ十字会すなわち古代神秘バラ十字会(the Ancient and Mystical Order Rosae Crucis)が起こり、世界中に拡がり、現代における入門儀式形式の主要団体のひとつとなる事になる。
※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.108)の記事のひとつです。
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