バラ十字会

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バラ十字会の歴史

その14 アメリカ初の“バラ十字会員”たち(後半)

クリスチャン・レビッセ

至福千年説

 敬虔派の活動をそのまま至福千年説運動と見なすことはできないが、至福千年説を奉じた多くの人々には敬虔主義の傾向が見られた。一般的に言ってこの傾向は、17世紀にドイツを悩ました危機、宗教改革だけでなく、「小氷河期」と呼ばれる悲惨な気候の大変動によって生じた経済危機などによる帰結であった。さらに、伝染病の流行により人口も大幅に減少していた。人々の日常生活に大きな影響を及ぼしたこれらの出来事は、黙示録的な思想や、フィオーレのヨアキム(Joachim of Fiore)が構築した神の計画の三段階理論への人々の興味をかきたてた。

 フィリップ・ヤコブ・シュペーナー(Philip Jacob Spener)は至福千年論者ではなかったが、至福千年思想の影響を全く受けずにいることはできなかった。1664年にシュペーナーは、ヨハン・ヴィルヘルム・ベッテション(Johann Wilhelm Petersen)が熱心に広めていた黙示録の六番目の天使の概念を擁護した。ベッテションと、その妻で当時の典型的な人物であったヨハンナ・エレオノーラ・フォン・メルロ(Johanna Eleonor von Merlau)はヴュルテンベルグ(ドイツ南西部地方)を訪れ、敬虔派のいくつかの団体と接触したが、これらの団体は世界の終末について述べ、黙示録的大惨事の後に最終的には全世界的再生が起こるという理論を説いていた。ヨハン・ヤコブ・ツィンマーマン(Johann Jacob Zimmermann, 1642-1693)は、この風変わりな夫妻との面識を得た。過去にチュービンゲン大学の研究者であったツィンマーマンは、神学者にして数学者、天文学者であり占星術者であったが、予言の計算に没頭していた。そして1694年が千年期の年、つまり、キリスト復活の年であると考えていた。この一大事に備えるために彼は、アメリカという人跡未踏の地に移住することを決意した。そして同じくチュービンゲン大学でかつて学んだことのあるヨハネス・ケルピウス(Johannes Kelpius)とともに、この大航海に同行する人々を募った。

 ヴュルテンベルグの敬虔派の指導者ヨハン・アルブレヒト・ベンゲル(Johann Albrecht Bengel, 1687-1752)は、聖書の本文批評(textual criticism)の父と見なされ、予言の計算に携わり、「世界の変遷の諸段階」に関する論文をいくつも書いていた言語学者であった。多くの敬虔派主義者と同様にベンゲルは、ヨハン・アルントを崇敬しており、アルントのことを「ヨハネの黙示録」14章6節に出てくる天使、つまり「最後の審判」を告知する人物であると考えていた。興味深いことに、ヴュルテンベルグにおいて、そして特にバラ十字運動と呼ばれていた活動において、アルントはしばしば予言で言われているキリストの復活の前に現れるエリヤの生まれ変わりであると見なされていたことをここで指摘しておこう。さらにはアルントのことを、パラケルススが予告したエリアス・アルティスタ(Elias Artista)であるとさえ見なす者もいた。

フィラデルフィア教会と英国の至福千年思想

 一般的に言って17世紀の終わりに至ると、もはや敬虔派の人々は、その時代がキリストの復活の最初の兆しであるとは考えなくなり、自分たちの信仰の証明を示すことができるように神が人類に一時的な猶予を与えたのであると考え始めていた。そこでこの人々は、クエーカー教徒のように聖なる教えに従って生活することができる共同体をいくつも世界につくろうと尽力した。ハレ市(ドイツ中東部)の敬虔派の人々は、インドの入植地と北アメリカのペンシルヴァニア州およびジョージア州の植民地のために資金を供給した。

 1691年、エルフルト市の敬虔派の大学が閉鎖される理由になった争いの後、ツィンマーマンとケルピウスはアメリカ大陸へ移住する計画に着手した。そして1693年、2人は弟子の一団を引き連れてドイツを旅立った。最初に立ち寄ったのはオランダのロッテルダム市であったが、ツィンマーマンはそこで没してしまった。そこでケルピウスは長旅の指揮を執るため、ハインリッヒ・ベルンハルト・カスター(Heinrich Bernhard Köster)を副指導者に任命し、ヨハネス・ゼーリッヒ(Johannes Seelig)、ダニエル・フォークナー(Daniel Falkner)、ダニエル・ルートケ(Daniel Lütke)ルードヴィヒ・ビーダーマン(Ludwig Biedermann)らが補佐を勤めた。そしてその他34名の同志とともに、イギリスへと航海した。総勢40名はロンドン市に到着すると、英国のヤコブ・ベーメ信奉者たちと接触した。

 ベーメ信奉者は、「新教会」(New Church)が説いていた誇大な至福千年説と黙示録の予言を信仰していた。しかし、このような理論はヤコブ・ベーメの哲学とは全く関係がなく、当時のイギリスではありふれたものであったフィオーレのヨアキムの提唱していた概念の影響を示すものであることに留意すべきであろう。同じ理由でルードヴィッヒ・マグルタン(Lodowicke Muggleton, 1609-1698)は、神の定めた第三の霊的時代について説教し、聖ペテロ教会に代わって「新教会」ができたと述べたのはこの理由からであった。そしてベーメの弟子でソフィア的ビジョンを体験したジェーン・リード(Jane Lead)も、『神の創造の驚異』(The Wonders of God's Creation)の中で、「旧約聖書は〈父の時代〉においては適切であったが、〈子〉にとっては〈新しいもの〉が適切であり、いまや第三の時代が到来し、この時代において〈聖霊〉は、前時代のあらゆるものよりも優れたものを、自身の所有とするであろう……」と述べた。1697年には彼女の影響のもと、フィラデルフィア教会が発足したが、この団体は真のベーメ哲学から外れて、至福千年思想の傾向を強く帯びていた。ジェーン・リードは、世界の終焉が差し迫っていることと、フィラデルフィア教会が千年王国にふさわしい浄化された教会であることを信じていた。「展望の山へ登る」(The Ascent to the Mount of Vision)の中でリードは牧歌的な表現を用いて、終末の時に先立ってキリストの千年王国が地上に現れると述べている。

アメリカ大陸への旅立ち

 ケルピウスと同行した人々は、このような先入観に無関心のままいることはできず、実際にジェーン・リードの元を訪れている。そして英国のベーメ信奉者たちが資金と物資の支援をしたことにより、ケルピウスの一団のアメリカ大陸への航海が容易になったとセルジュ・ユタン(Serge Hutin)は指摘している。そして1694年の2月、ドイツの敬虔派のキリスト教徒はサラ・マリア号で航海に出た。5ヶ月の航海の後、船はクエーカー教徒のウィリアム・ペン(William Penn)が数ヶ月前にたどり着き「兄弟愛の市」と呼ばれていたフィラデルフィア市に到着した。このペンシルバニア州の都市では、クエーカー教徒とメノー派信徒とアメリカ原住民が非暴力主義を実践しつつ平和に共存していた。

 フィラデルフィア市に到着してまもなく、ケルピウス一行は、ドイツ人が大きな共同体を形成していたドイツ人入植地の近くの、ウィッサヒコン川を見渡す尾根の近くに移り住んだ。一団はここに修道院式の生活に必要な個室と共有スペースのある総合施設を建てた。ケルピウスは自身の思想を説くために、〈幕屋〉(Tabernacle Room)と呼ばれる殿堂にその地域で活動していた様々な新教徒たちを呼び集めた。ケルピウスは共同施設から離れた場所に居所を構えたが、その洞穴は現在フィラデルフィア市のフェアマウント公園内にあり、見学することができる。

 この小さな共同体は極度に霊的な生活を送っていた。そしてまたとても活動的でもあり、子供たちの教育に非常に熱心であった。敬虔派の人々は天文学から製本技術、時計製造技術などにもおよぶ様々な科目を教えた。彼らの薬学と植物学の知識が活かされ、ペンシルヴァニア州で初の植物標本館もできた。また、ツィンマーマンが1694年に予言した千年期の到来の最初の兆しを調査するために、建物の頂上に天文観測所を設けた。彼らには天文学の知識があったので、18世紀におけるアメリカ初の天文暦を作ることができた。ザックス(Sachse)が発見した文書には、ケルピウスと弟子たちが占星術と魔術にも造詣が深く、護符や魔術陣の図案をつくり、神的秘術(theurgy)をしていたことが示されている。また、彼らの中には錬金術を行っていた者もいたらしい。しかしケルピウスは敬虔派である共同体の人々に、祈りがいかに重要であるかをことあるごとに説いていた。例えば、『短く簡単でわかりやすい祈りの方法』(A Short, Easy, and Comprehensive Method of Prayer)と題するすばらしい小論を書いているが、この小論の原理は伝統的な『心の祈り』(prayer of the heart)と同様のものである。

 この共同体は12年間栄えた。しかし、期待されていた千年期はやって来ず、共同体で暮らしていた幾人かは修道生活を放棄して集団を作ることを望むようになった。ケルピウスの補佐役を務めていたハインリッヒ・ベルンハード・カスター(Heinrich Bernhard Koester)の指導の下に、彼の配下の一群の人々はクエーカー教徒に加わり、「フィラデルフィア真教会」(the True Church of Philadelphia)を形成した。1708年にヨハネス・ケルピウスが没すると、共同体はかろうじて活動しているだけになってしまった。ケルピウスの最も親しい協力者のひとりであったフォークナーさえも、結婚して修道生活を放棄してしまった。そしてヨハネス・ゼーリッヒが共同体を率いようと試みたが成功に結びつくことはなく、ゼーリッヒはついに隠遁者として生きるために共同体を去る決心をした。その後コンラッド・マタイ(Conrad Matthai)が少しの間共同体を引き継いだが、ゼーリッヒと同じ轍を踏むこととなった。こうして共同体は少しずつ解散していった。

 数年後の1720年に、パン職人コンラッド・バイセル(Conrad Beissel)が率いる数名のドイツ敬虔派の人々は、現在のペンシルヴァニア州ハリスバーグ市近くにあるコカリコ川岸に移り住んだ。そして1737年に、バイセルはエフラタ共同体と呼ばれる独身主義者の一団を組織した。隠遁者とはかけ離れて実際的であったエフラタの人々は、様々な仕事をこなすために製粉所や製材所や製紙工場、印刷機などの諸施設を建設し、共同体の活動はたいへん繁栄した。精神的活動も非常に多く行われ、彼らの合唱曲と賛美歌は良く知られている。1768年、バイセルの死後に共同体は弱体化して行き、18世紀の終わり頃には消滅してしまった。しかしながら、これらの神秘家集団の出現はペンシルヴァニア地域に深遠な影響を及ぼしたのである。

 これまで示してきたように、アメリカ大陸に移り住んできたドイツの神秘家たちを正確にはバラ十字会員と呼ぶことはできない。彼らは秘伝主義と至福千年思想に強く影響を受けた敬虔派キリスト教徒であった。しかしながら彼らのルーツは、17世紀のバラ十字思想運動の中核をなしていたと考えられるチュービンゲンの霊的運動にある。パラケルススとベーメの弟子であったといわれているルター派教会の牧師であったシンセルス・レナトゥス(Sincerus Renatus、別名Samuel Richter)は、バラ十字会員がインドで平和に暮らすためにヨーロッパを去ったと主張していることを思い起こすべきであろう。これまで見てきたように、ドイツのハレ市の敬虔派キリスト教徒たちは1706年ごろフィラデルフィア市に共同体を営んでいたが、当時の多くの人々はアメリカ両大陸をインドであると考えていたことが分かっている。

 したがってヨハネス・ケルピウスと彼の弟子たちは、ホワイト・マウンテン(White Mountain)の戦いの惨劇と三十年戦争の後にドイツを発ち、平和と友愛精神によって統治される社会をアメリカに建設しようと固く決意した人々の一部である。彼らが抱いていた理想社会の輪郭は、旅立つ十数年前にバラ十字宣言書に描かれていたものであった。ゆえに、ペンシルヴァニアの敬虔派キリスト教徒たちをバラ十字の系譜に位置づけることは、全く無謀であるとは言えないのである。

※上記の文章は、バラ十字会が会員の方々に年に4回ご提供している神秘・科学・芸術に関する雑誌「バラのこころ」(No.110)の記事のひとつです。

 

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